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悪役令息に毎週決闘を挑まれていますが、たぶんこれ果たし状じゃない  作者: 夜凪 蒼


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第21話「平穏はもういらない」

図書塔のいちばん上、埃と古紙の匂いが染みついた一角に、カミル先輩の指定席がある。誰も来ない場所を選んで巣を作るのがこの人の生き方だ。俺が軋む階段を上がっていくと、先輩は書架の陰から気だるげに顔を上げた。


 「珍しいな。逃げ足の速い後輩が、自分から袋小路に上がってくるとは」


 嫌味たっぷりの歓迎だった。俺は返す言葉もなく、向かいの椅子に腰を落とす。話を切り出すまでに、ずいぶん時間がかかった。掲示板のこと。広がる噂のこと。あいつが日ごとに、笑わなくなっていくこと。ぽつぽつと吐き出す俺の話を、先輩は羊皮紙の頁を繰りながら聞いていた。


 言葉にしてみて、自分がどれだけ参っているのか、遅れて気づいた。あいつを守るつもりの回避が、逆にあいつを追い詰めている。かといって今さら隣に立つ資格も俺にはない。進むも退くもできずに、俺はこの塔の主のところへ、答えを乞いに来たのだ。


 先輩は急かさなかった。俺が言い終えるまで、頁を繰る手も止めない。全部を吐き出してしまうと、胸のなかが妙に空っぽになった。答えなんて、本当は自分でも薄々わかっている。それを口にする勇気が、どうしても出ないだけだ。誰かに背中を蹴飛ばしてほしくて、俺はこの塔まで逃げ込んできたのかもしれない。


 「で、後輩は何が聞きたい。放っておけと言われたいのか、首を突っ込めと背中を押されたいのか」


 「……どっちが、正しいんですか」


 「正しさで動けるなら、俺はこんな塔の隅で埃を被っちゃいない」


 先輩は本を閉じ、天井の梁を見上げた。没落した男爵家の出で、卒業しても帰る家も継ぐ爵位もない。だから波風を立てず、この塔に司書か研究職の口を見つけて居座る。それだけを考えて生きてきた。いつだったか本人が、乾いた口ぶりでそう話したことがある。安全な巣の作り方にかけて、この人の右に出る者はいない。


 「いいか、後輩。逃げるのは悪くない。逃げの達人として断言してやる。身の丈に合わん喧嘩から、さっさと降りるのは賢い生き方だ」


 そこで先輩は言葉を切り、まっすぐこちらへ視線を寄越した。いつもの気だるさがふっと薄れる。


 「ただ、一つだけ覚えとけ。逃げるのは悪くない。逃げた先に、何も残らんだけだ」


 何も残らない。乾ききったその一言が、みぞおちの辺りに重たく沈んだ。先輩の声には後輩を諭す親切心なんてこれっぽっちもない。自分の来し方を、そっくりそのまま俺の前へ広げてみせたのだ。波風一つない安全な塔。その代わり、この人の隣には今も誰もいない。


 この塔はたしかに居心地がいい。誰にも脅かされず、誰にも期待されず、波風のない時間だけが流れていく。だが先輩はそんな安全な場所にいて、ちっとも幸せそうには見えなかった。守るものがなければ、失う痛みもない。その代わり、胸が躍ることも、きっともう二度とないのだ。安全と引き換えに手放したものの大きさを、この人は誰より知っている。


 じゃあ俺はどうなんだ、と考えた。このまま上手に逃げ切って、当たり障りのない引き分けだけを積んで、無事に卒業した先に。手のなかに残るものを、俺は思い描こうとした。浮かんできたのは、望んだはずの平穏な景色なんかじゃない。負けても「次だ」と言えるようになった、あの不器用な横顔だった。


 思い知る。俺が本当に手放したくなかったのは、波風のない三年間なんかじゃない。あの馬鹿げた果たし状のやりとりだった。全力でぶつかってくる相手のいる、あの騒がしくて仕方のない時間だった。それを守るつもりで、自分から捨てにかかっていたなんて。とんだ計算違いだ。


 「先輩」俺は椅子を鳴らして立ち上がった。「俺、逃げるのやめます。何も残らないのは、さすがにごめんなので」


 「……はっ」先輩は虚をつかれた顔をして、それからひどく可笑しそうに、喉の奥で笑った。「ばーか。焚きつけたつもりはないぞ、こっちは」


 悪態のわりに、その目はどこか眩しいものでも見るふうだった。先輩はばさりと古い綴りを閉じ、こちらへ放って寄越す。受け止めれば、黴くさい学院の記録簿だ。過去の代表委員の任免記録が、几帳面に綴じられている。


 「持っていけ。理事の決裁がどうのと騒ぐつもりなら、こいつを洗っておいて損はない。塔の主として、埃の在処なら教えてやる。……それ以上は期待するな」


 憎まれ口の裏で、この人が動く理由も、なんとなく察しがついた。同類が逃げ損なうのを、間近で見たくないのだ。安全な塔にこもった自分の生き方を、後輩に否定されるのも癪なんだろう。どちらにせよ、差し出された手には違いない。俺はその綴りを胸に抱えて、深々と頭を下げた。


 「ありがとうございます、先輩」


 素直に礼を言うと、先輩は虫でも追い払うみたいに手を振った。


 「さっさと行け。埃が立つ」


 照れ隠しなのは丸わかりだった。この毒舌家なりの不器用な励ましを、俺は確かに受け取ったのだ。


 塔を下りる足取りは、上ってきたときよりずっと軽くなっていた。逃げないと腹をくくった途端に、こうも背中が楽になるとは思わなかった。長い階段の窓から、秋の西日が斜めに差し込んでいる。——待ってろ。今度はこっちから、行ってやるからな。

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