第18話「悪役令息のできあがり」
距離を置くと決めてから、オスカーは日に日に、俺の知らない顔になっていった。
教室で顔を合わせても、あいつはもう「貴様」とは言わない。よう、の一言もない。辛気くさい顔だな、の憎まれ口もない。俺の存在など、はなから視界に入っていないみたいだ。まっすぐ前だけを見て、席につく。誰かに話しかけられれば、模範解答めいた台詞を抑揚もなく返す。あの叔父の前で見た、感情を拭い去った白い彫像。それが常のときの顔になりつつあった。
一度だけ、授業で当てられたあいつの解答を聞いた。よどみない、完璧な答え。教師が満足げに頷く。以前ならそこで、俺のほうをちらりと見て「どうだ」と言いたげに口の端を上げたはずだ。だが今のあいつは、そんな素振りも見せない。無言で席に座り、まっすぐ前を向いている。俺という存在を、きれいに消し去ったみたいに。
あいつの声はいつのまにか平らになっていた。以前はどんな減らず口にも、微かな熱がこもっていたのに。今は教科書を読み上げる声と、ちっとも変わらない。その温度のない響きを耳にするたび、俺の喉の奥がざらりと渇いた。
果たし状はもう届かない。中庭に木剣の音もない。あれほど鬱陶しかった週に一度の勝負が消えて、俺の日常は、望みどおりの静けさを取り戻した。
なのに、ちっとも心が晴れない。
完璧な嫡男。非の打ちどころのない次席。それはまさしく、前世の画面で見た姿だった。断罪される直前の「悪役令息」オスカー・グランツベルク。減らず口はもうない。パンの練り方も知らない不器用さもない。負けて赤くなる耳もそこにはない。俺が半年かけて知った生身のあいつ。それが日ごとに削り取られていく。物語の中の冷たい令息へと、逆戻りしていくのだ。
それを見ているのが、なぜだかたまらなく苦しかった。俺が距離を取ったのは、あいつを守るためだ。あの冷たい令息に戻さないためだったはずだ。なのに結果はまるで逆をいっている。守ろうとするほど、あいつは俺の知らない顔になっていく。皮肉にもほどがある。
ある日の渡り廊下で、俺たちは正面から行き会った。
互いに目を伏せる。他人のふりですれ違う。——そのときだった。すれ違いざま、俺の足が、ほんの半歩だけ遅くなった。同じ瞬間だ。隣を抜けていくあいつの歩みも、ほんのわずか緩んだ気がした。触れれば消えてしまいそうな、一拍ぶんの間。だが二人とも気づかないふりでそのまま行き過ぎる。振り返りはしなかった。おたがい、意地みたいに。
その一部始終を、柱にもたれて眺めていた奴がいた。
「うーわ。なにあれ、見てるこっちが胸焼けするんだけど」
フェリクス王子だ。相変わらず、面白いものの匂いを嗅ぎつけるのだけは早い。にやにやと俺の隣へ並んで、去っていくオスカーの背中を顎でしゃくる。
「ねえ首席くん。君さ、あれ、ほんとに放っておくんだ?」
「……何のことです」
「とぼけちゃって。名物の決闘、ぱったりだろ。おかげで最近この学院、退屈で退屈でさ。せっかくの見世物を取り上げてくれちゃって。僕、君に文句を言う権利があると思うんだよね」
軽い口ぶりだった。だがその目の奥だけは、ちっとも笑っていない。
「でもさ、冗談抜きで一つだけ。彼、面白くない方向にどんどん完璧になってってるよ。あの子、昔からああなんだ。感情を全部しまい込むとね、笑っちゃうくらい隙のない優等生になる。……で、そういうときの彼のそばには、決まってよくないものが寄ってくる」
「……ずいぶんと、思わせぶりですね」
「あはは、でしょ? 僕、思わせぶりだけは得意なんだ」
よくないもの。その一言に、俺の背筋がぞくりとした。フェリクスはそれ以上は言わなかった。小さく肩をすくめる。「まあ、余計なお世話かもだけど」。そう言い残して、ひらひら手を振って去っていった。
残された俺はフェリクスの言葉を頭のなかで何度も転がした。感情をしまい込んだオスカーのそばには、よくないものが寄ってくる。
——待て。それじゃあ、まるで。
うなじの産毛が逆立つような予感に俺は立ちすくんだ。俺はあいつを、破滅から遠ざけるために距離を取った。なのに現実のオスカーは、俺が離れたことで感情を凍らせている。ゲームの「悪役令息」の顔へと近づいている。断罪される、あの令息の顔へ。……もしかして、俺の回避は。破滅を防ぐどころじゃない。あの物語の幕を、自分の手で引き上げているんじゃないのか。
考えれば考えるほど、その疑いは濃くなっていく。俺は破滅を遠ざけたつもりでいた。だが本当は逆の扉を開けてしまったのかもしれない。フェリクスの言う「よくないもの」。それが何なのかはまだわからない。だが確かなことが一つある。今のオスカーはあまりに無防備だ。感情を殺したあいつは、悪意に対してがら空きなのだ。膝から、すっと力が抜けそうになる。俺はもう、これまでみたいに「平穏のため」と唱えて、逃げてばかりはいられない。
そんな馬鹿な、と打ち消そうとした。だがうまくいかない。冷たい汗が背中を伝っていく。俺の完璧な計画。その足元で、何かがぐらりと傾いだ音を、確かに聞いた気がした。




