第17話「嘘は身分の壁の形をしている」
その日は逃げ切れなかった。
放課後の渡り廊下は、人の気配が絶えていた。柱の影が夕日で細長く伸びている。足早に通り抜けようとした俺は、いきなり腕を掴まれた。振り払う間もない。壁際へ追い詰められて見上げると、オスカーが青い瞳でまっすぐ俺を睨んでいた。いつもの芝居がかった怒りじゃない。もっと切実な、行き場をなくした何かが、その目の奥で渦を巻いている。
こんな顔をさせたのは俺だ。避け続けて、無視し続けて、とうとうあいつをここまで追い詰めた。わかっている。わかっているのに、俺は目を逸らすことしかできない。
「——俺が、何をした」
低い、掠れた声だった。「私」じゃない。人目のない場所で、感情のたがが外れたときの、素の「俺」だ。あいつは本気で戸惑っていた。
「果たし状の返事も寄越さん。委員会でも口をきかん。目も合わせん。……理由を言え。俺が、お前に何をした」
俺が黙っていると、あいつは焦れたように壁を叩いた。すぐ横で、ごつ、と鈍い音が鳴る。
「気に入らんことがあるなら、言え。決闘で決着をつけてもいい。だが、この無視だけは——耐えられん」
最後の一言はほとんど懇願に近かった。あの高慢な公爵令息が。首席の座を平民に奪われても眉ひとつ動かさなかった男が。今はたった一人の宿敵に無視されたくらいで、こんなにも余裕を失っている。
言葉に詰まった。何もしていない。お前は何一つ悪くない。喉まで出かかったその答えを、俺は奥歯で噛み殺す。本当のことなど、言えるわけがない。「お前は秋の祭りで断罪されて破滅する運命だ。俺はそれを防ぐために離れてる」——そんな世迷いごとを誰が信じる。無理に信じさせようとすれば、こいつを余計に混乱させるだけだ。傷を、もっと深くするだけだ。
本当のことは言えない。かといって、黙って睨み返す気力ももう残っていない。あいつの目が答えを待って揺らいでいる。その目を見ていられなくて、俺は視線を床へ落とした。何か言わなきゃ。こいつが納得して、二度と近づいてこなくなるような、決定的な何かを。
だから俺はいちばん卑怯な手を選んだ。本心とは似ても似つかない嘘。けれど、こいつがいちばん納得しそうな嘘を。
「……身分を、わきまえただけです」
できるだけ平坦な声を意識して作った。
「平民の俺が、公爵家のあなたに関わりすぎました。決闘だのなんだのと浮かれて、立場を忘れてたんです。もう、こんなお遊びは終わりにしましょう。おたがい、そのほうが賢明ですよ」
言い切った瞬間のあいつの顔を、俺は一生忘れないと思う。
オスカーの目のなかで、渦を巻いていた感情が、すうっと引いていった。潮が沖へ退くみたいに。むき出しだった戸惑いも怒りも。その奥にあったはずの何かも。みるみる冷えて、固い膜の下へ隠れていく。
「……そうか」
声が変わった。さっきまでの「俺」は、もうどこにもいない。冷ややかに、他人行儀にあいつは続けた。
「私が、思い違いをしていたようだ。平民の身で気安く付き合ったのは、こちらの落ち度だった。忘れてくれ」
「私」。その他人行儀な一言が、ぐさりと胸に刺さった。俺が下町の店先で聞いた、あの柔らかい「俺」。それはたった一言の嘘で、鍵をかけられてしまった。目の前のこいつは、叔父の前で見た、あの作り物めいた無表情に戻っている。俺が、そうさせたのだ。俺の嘘が、あいつをまた、あの檻へ押し戻した。
オスカーは背筋を伸ばした。貴族の礼を寸分たがわず取って、踵を返す。もう二度と、こちらを振り返らない足取りで。渡り廊下に、規則正しい靴音だけが遠ざかっていった。その音が完全に消えても、俺はしばらく壁に背を預けたまま、動けずにいた。
一人残された渡り廊下に、秋の夕風が吹き抜ける。急に、あたりが広く、そして寒々しく感じられた。ついさっきまで、この距離にあいつの体温があった。それが今は嘘みたいに遠い。
さっきまであれほど近くにあった気配が、綺麗に拭い去られている。自分で押しやったくせに、俺はその空白を持て余していた。
正しいことをしたはずだ。これで断罪の因縁は遠ざかる。あいつは破滅を免れる。計画どおりだ。何もかも俺の望んだとおりに運んでいる。うまくいっている。うまく、いっているはずなのに。
俺は知っている。今の選択があいつを守るための最善だと。頭のいちばん冷えた場所はそう告げている。だが心のほうはまるで納得していない。守るために傷つける。近づかせないために突き放す。そんな矛盾を、どう飲み下せばいいのか。俺にはまるでわからなかった。
それでもこれでいい。これでいいはずだ。あいつが破滅の筋書きから外れてくれるなら、俺の胸の痛みなんて、安いものだ。何度も自分にそう言い聞かせた。言い聞かせるほど、その言葉は空々しく響いた。
なのに、口の中に血の味がした。いつのまにか、唇の内側を噛み切っていたらしい。鉄くさいそれを、舌の先でそっと確かめる。この味だけがやけに本当のことのように思えた。俺のついた嘘の後味は、いつまでたっても、口の奥から消えてくれなかった。




