第13話「偵察だと言い張るなら」
週末になると、俺はときどき辻馬車に半刻ゆられて、下町の実家へ帰る。ミレット堂。父が朝から窯の番をし、母が売り子に立つ、どこにでもある町のパン屋だ。
その日も俺は粉くさいエプロンを締めて店先に立っていた。焼きたてのくるみパンの、香ばしくて甘い匂いが通りまで流れていく。夏の昼下がり、常連のおかみさんと世間話を交わしながら釣り銭を渡す。学院の張りつめた空気とは大違いの、気の抜けるようなのどかさ。この時間だけは俺は特待生でも首席でもなく、ひとりのパン屋の長男に戻れる。
その平和を、聞き覚えのある声がぶち壊した。
「——ここが、貴様の家の店か」
振り向いて、俺は釣り銭を取り落としそうになった。銀の髪に青い瞳。そして下町にはあまりに不釣り合いな、仕立ての完璧な私服。オスカー・グランツベルクが、なぜか俺の実家の軒先に堂々と立っていたのだ。
「……なんで、あんたがここにいるんだ」
思わず素が出た。学院の外だ、貴様呼びも果たし状も関係ない。純粋に、意味がわからなかった。休日に、公爵家の跡取りが、わざわざこんな下町のパン屋まで。
「勘違いするな。偵察だ」
オスカーはつんと胸を張って言い放った。「料理の決闘で、私は一度貴様に負けている。敵の本拠地を検分するのは、次の勝負への当然の備えだ。他意はない」
偵察。この、焼きたてパンの匂いに満ちた平和きわまる店を。俺は頭を抱えたくなった。だいたい敵情視察のつもりなら、もう少し気配を消したらどうだ。その辺の令嬢がひっくり返りそうな美貌で仁王立ちされたら、忍びも何もあったものじゃない。現に、通りを行く近所の人たちが、みんな二度見していく。
「偵察だと言い張るなら、まあ、好きに見てけばいいけど……」
俺がため息まじりにそう言うと、オスカーは我が意を得たりとばかりに店内へ踏み込んだ。そして、さっそくやらかす。
「ミレット。この、くるみの入った丸いパン。これは一ついくらだ」
「2クローネだけど」
「……に。たった、それだけか」
値段を聞いたオスカーが、本気で目を見開いて絶句している。どうやら公爵家の跡取りは、パン一個の値段すら知らないまま生きてきたらしい。俺の実家の看板商品が、こいつの世界ではどれほどの価値へ換算されるのか。想像したら、なんだか無性におかしくなってきた。
とそのときだった。店の奥から、たたっと小さな足音が駆けてくる。
「にいちゃん、おかえり——わあ、だれ? この人、きれい!」
俺の弟だ。まだ6つの、物おじを知らないちびすけ。そいつがオスカーの足元まで一直線に駆け寄って、きらきらした目で見上げた。
「にいちゃんのおともだち? ねえねえ、髪、銀いろ! さわってもいい?」
途端に、オスカーが固まった。剣を構えても眉ひとつ動かさないあの宿敵が、6つの子どもに詰め寄られただけで、あからさまに狼狽している。助けを求めるみたいに俺のほうをちらちら見て、口をへの字に結んで。
「……勝手に触るな。私は、忙しい」
言葉はいつもの高慢さなのに、その場から逃げ出そうとはしない。それどころか、しばらく突っ立ったあとで、あいつはぎこちなく膝を折った。弟と目の高さを合わせたのだ。おっかなびっくり差し出された小さな手が銀の髪に触れる。弟が「わあ」と歓声をあげると、オスカーの強張った頬が、ほんのわずかにゆるんだ。
「……別に。減るものでもない」
ぼそっと呟いたその物言い。張り詰めた「私」から、素の「俺」に近い柔らかさへ、ふと傾いた気がした。気のせいかもしれない。だが人前では決して崩さないはずのあいつの構えが、この粉くさい店先では、たしかに少しほどけて見えた。
騒ぎを聞きつけた母が奥から顔を出した。事情を察したのか、にこにこ焼きたてのくるみパンを紙袋へ詰めて、オスカーに差し出す。
「まあまあ、ルカのお友達? いつも仲良くしてくれてありがとうねえ。これ、焼きたてよ。持ってらっしゃい」
「……いや、私は、施しを受ける筋合いは」
「あらそう? でも、うちのルカがお世話になってるでしょう。ほら、遠慮しないの」
押しの強い母に気圧されて、オスカーはとうとう紙袋を受け取った。焼きたての匂いに、その喉がこくりと鳴る。
「……もらう。代金は、後日きちんと払わせろ。俺は、借りは作らん主義だ」
代金云々のくだりで、母がくすっと笑った。俺もつられて。公爵家の跡取りが、下町のパン一袋に律儀な借用証を切ろうとしている。この絵面のちぐはぐさはいったい何なんだ。
結局オスカーは弟に袖を引かれるまま、店の奥の小上がりでしばらく油を売っていった。父が窯の前から、値踏みするような目でちらりとあいつを見て、それきり何も言わずに手元の生地へ視線を戻す。あの偏屈な親父が追い出さなかったのは、たぶん、及第点ってことなんだろう。
辻馬車の時間だと言って、オスカーが腰を上げる。弟が「またきてね!」と手を振ると、あいつは振り返りもせず片手だけ挙げて応えた。照れ隠しの、ぶっきらぼうな仕草で。
その後ろ姿を見送りながら、俺は妙な感慨に浸っていた。公爵家の屋敷に、たぶんこんな時間はないんだろう。値段も知らないパンに驚いて、子どもに髪を触られてうろたえて、母親のお節介に押し切られる。そんな、なんでもない休日の温度が。
偵察に来たはずのこいつは、いったい何を持って帰ったんだか。少なくとも敵情の分析じゃないことだけは、俺にも確信が持てた。




