第11話「手加減はしないと決めている」
中間試験が近づくと、学院全体がぴりぴりと張りつめる。夏の盛りの気だるさも、この時期ばかりは成績表の影に追いやられた。廊下ですれ違う生徒は、みな分厚い教本を抱えている。談話室の窓には夜遅くまで明かりが灯る。そんな折に届いた今週の果たし状には、案の定というべき一文があった。
「次の勝負。種目、中間試験の総合順位。負けたほうが、勝ったほうの言うことを一つ聞く」
封蝋を割って中身を読んだ俺は思わず天を仰いだ。また試験か。剣も料理も飽きたらしい。しかも今度は賭けがくるみパンですらない。「言うことを一つ聞く」——なんだ、それは。無茶な命令をされたら、どうしてくれるんだ。
とはいえ、俺にとってこの種目はそう悪くない。座学は得意だ。全力を出せば、たぶん勝てる。……いや、待てよ。ここで一つ、考えておくべきことがある。
わざと負けてやったら、どうだろう。
俺の望みは平穏だ。首席の座に、正直こだわりはない。むしろ平民が学年の頂点に居座るほうが、あの理事の目を引いて厄介ごとの種になる。僅差の二位に収まってやればいい。そうすればオスカーの気は済む。俺も目立たずに済む。双方まるく収まって、万事解決だ。完璧な落としどころじゃないか。
そう算段しかけた矢先だった。当のオスカーと、購買前で鉢合わせた。
「ミレット。逃げの一手が得意な貴様のことだ。試験でも小細工を弄するんだろう」
「人聞きの悪い。真面目に受けますよ、試験くらい」
「せいぜい足掻け。言っておくが、私は手加減という言葉を知らん」
その声に、いつもの芝居がかった刺々しさとは違うものが混じっていた。硬く、張りつめた響き。手加減を知らないと言い放ったときの横顔がきゅっと強張る。
「首位以外に価値はない。二位は、無価値だ。……そう育てられた」
ぽつりと落ちたその一言に、俺は返す言葉を失った。減らず口じゃない。負けず嫌いの見栄でもない。もっと根の深い、呪いみたいな響きだった。一度でも二位に落ちれば切り捨てられる。そういう家に生まれた人間の、乾いた本音。前世の画面越しに同情した、あの令息の背景。それが今、生身の重みで目の前にあった。
その瞬間、わざと負けてやろうという算段が、急に薄っぺらく思えてきた。
こいつは全力でぶつかってくる。首位に、命がけみたいな意味を背負わせて。そんな相手へ手心を加えた二位を差し出すのは、いちばんの侮辱じゃないか。負けるにせよ勝つにせよ、俺は俺の全部で応じる。それがこの不器用な宿敵へのせめてもの礼儀だ。手加減はしない。俺だって、そう決めている。
試験のあいだ、俺は久しぶりに本気で走り抜けた。過去問を解く。苦手な範囲を潰す。夜更けまで教本にかじりついた。こんなに必死で机へ向かったのは、前世の受験勉強以来かもしれない。宿敵に全力で応えるための勉強なんて、我ながらどうかしている。
それでも不思議と苦じゃなかった。教本の同じ頁を、あいつも今ごろ睨んでいる。そう思うだけで、眠気なんて吹き飛んだ。負けたくない。勝ちたい。その一心で夜を明かすのは、久しく忘れていた感覚だ。修羅場を避けたいはずの俺が、こんなにも本気で誰かと張り合っている。おかしな話だと自分でも思う。
そして迎えた、結果発表の日。
張り出された順位表の前は、また賭けの見物人でごった返していた。俺は人垣の頭ごしに、自分とオスカーの名前を探す。——一位、ルカ・ミレット。二位、オスカー・グランツベルク。ほんの数点の、きわどい差だった。
周囲がざわりと色めき立つ。誰もが同じことを予感していた。負けず嫌いの公爵令息が、また「次は負けん」と気炎を上げるのだろう、と。いや、種目が種目だ。今度こそ本気で荒れるかもしれない。観客の期待と警戒が、じわりと入り混じる。
だがオスカーは順位表をじっと見上げたまま動かなかった。しばらくして、ぽつりと。
「……次だ」
それだけだった。喚きも悪態もない。貴様の一言すらない。たった一言を残して、あいつは踵を返す。拍子抜けした観客が、顔を見合わせてざわめいた。あの負けず嫌いが、こうもあっさり引き下がるとは。
だがすぐ後ろにいた俺だけは見てしまった。背を向けざまの、オスカーの耳を。
赤い。
首筋のきわ。髪の生え際のあたりまで、じんわりと赤く染まっている。声はあくまで平静を装っていた。なのにその耳だけが、隠しきれない何かを白状している。悔しさか、気恥ずかしさか。負けを認めるのが、こいつには本当のところ、死ぬほど照れくさいのかもしれない。
(……なんだよ、それ)
胸の奥を、くすぐったいものが引っかいた。「二位は無価値」だと本気で信じ込んでいた男。それが負けを認めて、荒れずに前を向いた。呪いの縁に、小さな穴がひとつ開いたのだ。その穴をこじ開けたのは、ほかでもない俺の全力だった。勝ったのは俺のはずだ。なのにどうして、こっちの心臓ばかりが、こんなにうるさく騒いでいるんだか。




