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闇の楔、十兵衛杉の慟哭

 柳生の里からさらに山深く、細く険しい古道を妖怪たちが駆ける。

 この地特有の、研ぎ澄まされた刃のような冷気が一行を包み込んでいた。

「蓮真さま、耳を。……そして、この匂いを」

 一反木綿の端で蓮真を支える小鞠が、喉の奥で低く威嚇するような声を漏らした。彼女の猫耳は、前方から届く「異質な音」を捉えていた。それは風の音ではなく、真空を切り裂くような鋭い風切り音――剣鳴の残響だ。

「……鉄が焼ける匂い。それと、あのお方の、あまりにも熱い霊力の匂いがいたします。ですが……遅すぎましたわ」

 小鞠が悔しそうに唇を噛む。彼女の優れた嗅覚が捉えている「朔夜の匂い」は、すでにそこから遠ざかり、薄れ始めていた。


 辿り着いたのは、柳生の象徴とも言える巨大な杉の木――「十兵衛杉」が立つ開けた場所だった。

「……酷い」

 蓮真は妖怪たちが作った「座」から、春の湿り気を帯びた地面へと降り立ち、呆然と周囲を見渡した。

 十兵衛杉の周囲十数メートルにわたって、地面は爆散したかのように抉れ、周囲の立ち木は鋭利な何かに斬り刻まれている。

 霊視の目を通せば、そこにはまだ「影」の残骸が煤のように舞っていた。柳生新陰流の使い手たちの残留思念を、強引に「剣の兵士」として繋ぎ合わせた異形の軍勢。それが、この場所で朔夜を待ち構えていたのだ。

「兄さんは……また一人で、これだけの数を相手にしたの?」

 蓮真は、地面に落ちている「物」に気づき、駆け寄った。

 それは、朔夜の愛車の左側ミラーだった。根元からへし折れたそれは、激しい衝撃を物語るように鏡面が蜘蛛の巣状に割れている。その割れた鏡の破片に、一滴、また一滴と、まだ乾ききっていない赤い血が滴っていた。

「……まだ、温かい」

 蓮真がミラーを拾い上げると、鍵を通じて強烈な衝撃が脳内に流れ込んできた。


 背後から迫る無数の不可視の刃。朔夜はバイクを傾け、限界を超えるバンク角でそれらを回避しながら、左手一本で九字を切った。

 

 ――ガァンッ!

 

 ミラーが弾け飛ぶ。それと引き換えに、朔夜の指先から放たれた紫電が、柳生の霊脈を弄んでいた「闇の楔」を焼き切り、強制的に術式を霧散させた。それは浄化ではない。敵の計画を、力ずくで「無」に帰すための、あまりにも荒っぽい攪乱だ。


「蓮真さま……。あのお方の気配は、すでにここにはありません」

 小鞠が蓮真の背後に寄り添い、その震える肩を包み込むように抱いた。彼女の鼻は、山を駆け下り、再び平野部へと向かおうとする「焼けたオイルの匂い」を追いかけている。

「北西ですわ。……京都の街を横切るような、いえ、さらにその先へと向かっております。あのお方のバイク、心臓部を痛めておりますのに、あんな無理な回し方をして……。あのお方は、どこで止まるおつもりかしら」

 小鞠の瞳に、かすかな畏怖が混じる。妖怪である彼女たちにとって、朔夜という男は、死を振り撒きながら走る破壊神に近い。けれど、その後を追う蓮真だけは、その排気音の裏側に隠された、兄の悲鳴を聞き取っていた。

「……北西。京都を抜けて、もっと遠くへ行くつもりなんだ」

 蓮真は割れたミラーを大切に胸に抱いた。


 生駒、京北、そして柳生。

 兄はただ逃げているんじゃない。近畿の地図を、文字通り血を流しながら駆け巡り、何かを拒絶し続けている。

 カウル、レンズ、そしてミラー。兄が命を削るたびに、愛車は少しずつ欠けていく。まるで、朔夜という男の魂が少しずつ削れ、散らばっていくのを象徴しているようだった。

「行こう、みんな。……兄さんの轍が、まだ温かいうちに。追いかけなきゃ、本当に燃え尽きてしまう」

 蓮真の願いを受け、妖怪たちが再び動き出す。

 小鞠は蓮真を優しく「座」へと誘い、再び彼を担ぎ上げた。

「お任せくださいませ。この鼻と耳が、あのお方の断末魔を見逃しはいたしませんわ」

 少年を乗せた妖怪の群れは、十兵衛杉の沈黙を後にし、北西の空へと消えていった。

 三つの「破壊の点」を繋ぐ線が、まだ何を描くのか分からないまま、蓮真はただ暗闇の先へと手を伸ばし続ける。

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