柳生の静寂、断たれた剣気
京北から南東へ。京都の北端から、古都・奈良のさらに奥座敷へと続く道のりは、妖怪たちの空駆ける足を持ってしても一筋縄ではいかなかった。
「……蓮真さま、耳を。この辺りの空気、先ほどまでとは明らかに質が違いますわ」
蓮真を担ぐ一反木綿の傍ら、小鞠が鋭い視線で夜の深淵を射抜いた。
柳生。
江戸時代、徳川将軍家の兵法指南役を務めた柳生一族の本拠地。今なおその地には、数多の剣士たちが磨き上げた「殺気」と、それを昇華させた「静謐」が、分厚い地層のように積み重なっている。
「うん……。空気がピリピリして、肌を刺すみたいだ。小鞠、何か聞こえる?」
蓮真が問いかけると、小鞠は猫耳を幾度か痙攣させ、柳生の里を囲む森の奥へと意識を集中させた。人には聞こえぬ高周波、そして風に乗って流れてくる「鉄の匂い」を、彼女の鋭い知覚が逃さず捉える。
「……鳥の声も、虫の音もいたしません。ただ、激しく火花が散るような、目に見えない剣鳴の残響だけが聞こえますわ。それに……あのお方の匂いが、ここで急激に濃くなっております。オイルの香りに混じって、焦げたような霊力の臭い。……あ、蓮真さま、だめ。そんなに身を乗り出さないで。貴方のその清廉な香りが乱れると、私の自制心が……」
小鞠は蓮真の細い腰を支える手に力を込め、鼻先を彼の項へと寄せた。この殺伐とした柳生の空気の中で、蓮真から放たれる純粋無垢な霊力は、彼女にとって至上の甘露だ。ふとした拍子にその白い肌を甘噛みしてしまいたいという衝動を、彼女は喉を鳴らすことで無理やり抑え込み、忠実な従者としての役割を全うしようと努めた。
やがて、一行は柳生一族の菩提寺・芳徳寺に近い、古びた剣術道場の跡地に降り立った。
そこには、戦慄すべき光景が広がっていた。
道場の庭に植えられた老木は、何らかの巨大な力で一刀両断にされ、周囲の石垣には、物理的な刃物では不可能なほど深い「斬撃の溝」が、幾筋も刻まれている。
「これは……兄さんの仕業じゃない。もっと、鋭くて、無機質な……」
蓮真は震える指で、道場の柱に残された切り口をなぞった。
そこには、京北で見られた朔夜の「雷の楔」ではない、別の術式の残骸があった。何者かがこの柳生の地に眠る「剣気」を強引に引き出し、それを実体化させて振るった跡だ。
「……兄さんは、ここでこの『剣』と戦ったんだ」
蓮真の脳裏に、鍵を通じてビジョンが流れ込む。
満身創痍のバイクで駆け抜け、柳生の地に降り立った朔夜。そこへ襲いかかる、柳生の剣豪たちの意志を纏った無数の影たち。朔夜はバイクを盾にしながら、印を結ぶ暇もなく、自らの霊力を物理的な衝撃波に変えて応戦した。
そして、道場の中央。
そこに残されていたのは、朔夜のバイクの「ウィンカーレンズ」の破片と、乾く暇もなかったであろう、新しい血の跡だった。
「蓮真さま! あちら、森の奥に続く轍が……!」
小鞠が指差す先、柳生の里を抜けてさらに山深くへと続く小道。そこには、蛇行しながらも力強く進むタイヤの跡と、点々と続くオイルの滴りがあった。
「兄さんはまだ、止まっていない。……敵の攻撃を真っ向から受けて、それでも、この場所を『何か』に利用されないように戦い続けているんだ」
蓮真はカウルの破片に続き、落ちていたレンズの欠片を拾い上げた。
生駒、京北、そして柳生。
なぜこれほど離れた場所で、同じような攻撃が繰り返されるのか。なぜ兄は、あざ笑うように先回りして、自分を犠牲にしながらその場を「汚し」続けているのか。
バラバラな三つの点。その繋がりはまだ霧の中にあり、蓮真には何一つ正体は分かっていない。ただ、兄が立ち向かっている闇が、想像を絶するほど巨大で組織的なものであることだけが、拾い上げた破片の冷たさから伝わってきた。
「行こう。兄さんが、柳生の剣豪たちの亡霊に飲まれてしまう前に。……これ以上、兄さんを独りにはしておけない」
蓮真の声に応え、再び妖怪たちが動き出す。
小鞠は蓮真を抱き上げながら、その耳元で熱い吐息を漏らした。
「ええ、どこまでも。……でも蓮真さま、あまり悲しい顔をなさらないで。貴方が泣くと、私の胸の奥が、それこそ食べちゃいたいほどに疼いてしまいますから」
少年を乗せた百鬼夜行は、柳生の重厚な静寂を切り裂き、深山へと消えていった。
夜明け前の月が、無残に斬り裂かれた道場跡を、冷たく照らし続けていた。




