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黒田の桜、静灰の戦跡

 京北の春は、夜になれば冬の名残を感じさせるほどに冷え込む。

 しかし、黒田の地に辿り着いた蓮真たちを待ち受けていたのは、その寒さを忘れさせるほどに圧倒的な、視覚の暴力だった。

「……到着いたしましたわ、蓮真さま。ここが、あのお方の『熱』が最後に弾けた場所ですわ」

 蓮真を乗せて夜空を滑っていた一反木綿が、その長い布体をゆっくりと地表へ向けて傾ける。周囲を固めていた小鞠たちが、蓮真がバランスを崩さないよう、その柔らかな体を全方位から支えながら、静かに地上へと導いていく。


 蓮真が、妖怪たちが作った「座」から、春の湿り気を帯びた地面へとそっと足をついた。

 その瞬間、彼の視界を埋め尽くしたのは、夜闇を背景に狂い咲く満開の桜――「百年桜」だった。月の光を浴びて白く輝くその姿は、あまりにも幻想的で、同時にどこか毒々しいほどの生命力に満ちている。

「……綺麗。だけど、なんて酷い匂いなの」

 蓮真の隣に降り立った小鞠が、愛らしい鼻先をぴくりと動かし、喉を鳴らした。彼女は蓮真の守護役として、その優れた嗅覚と聴覚を常に研ぎ澄ませている。

 彼女は蓮真の肩にそっと手を置き、その首筋に顔を寄せた。彼女にとって、蓮真から溢れる清らかな霊力は、どんな芳香よりも甘く、本能を揺さぶるほどに魅力的だ。理性を保つ膜の向こう側で、このまま全てを愛で食い尽くしてしまいたいという危うい衝動を、彼女は忠誠心という薄い膜で包み隠し、鋭い知覚を周囲の警戒へと向けた。

「蓮真さま、ここから先は『視る』必要がありそうですわ。……嗅覚が、あのお方の苛烈な霊力に焼かれてしまいそうです」

 蓮真が百年桜へと歩み寄る。

 霊視の力を集中させると、現実の景色に「戦場の残響」が重なって見えてきた。

 桜の周囲には、無数の「影」が引き裂かれた跡が、黒い霧のように地面にへばりついている。それは朔夜の放った鋭利な雷光の残滓であり、敵を塵も残さず消滅させた証拠だった。

 そして、百年桜の幹。

 蓮真は、そこに刻まれた「不自然な歪み」に目を見開いた。


 幹には目に見える傷こそないものの、霊的にはどす黒い外法げほうの杭が打ち込まれようとした痕跡がある。何者かがこの土地の霊脈を強引に利用し、何らかの巨大な術式を構築しようとしたのだ。

 しかし、その「闇の杭」に重なるようにして、朔夜の放った苛烈な「雷の楔」が無理やり打ち込まれ、術の回路をズタズタに寸断していた。

「兄さんは……護ったんじゃない。誰かがやろうとしている『何か』を、力ずくで壊しに回っているんだ」

 蓮真の胸に、底知れない不安が広がる。

 生駒、そして京北。あまりに離れた二つの地点で、同じような「破壊」が行われている。それが何を意味するのか、今の蓮真にはまだ分からない。けれど、兄がバイクという弾丸になって先回りし、目に見えない巨大な敵の計画を、文字通り命を削って足止めしていることだけは確信できた。

「……あ、これ」

 蓮真は桜の根元、花びらが降り積もる地面に、一点の異物を見つけた。

 それは、朔夜のバイクの一部と思われる、黒いカウルの破片だった。表面には深い爪痕のような傷が刻まれ、そこから乾いたオイルが、まるで涙の跡のように筋を作っている。

「蓮真さま、耳を澄ませてください……。まだ、聞こえますわ」

 小鞠が蓮真の背後から包み込むように寄り添い、夜の闇を睨み据える。彼女の優れた聴覚が捉えたのは、風の音に混じる、かすかな「排気音」の残響だった。

「南東ですわ。……京都の街を大きく迂回して、奈良の山の方へ向かっております。あのお方のバイク、心臓部を痛めておりますのに、まだあんな無理な回し方をして……。あのお方は、一体どこまで行くおつもりかしら」

 小鞠の瞳に、かすかな畏怖が混じる。妖怪である彼女たちにとって、朔夜という男は、死を振り撒きながら走る破壊神に近い。けれど、その後を追う蓮真だけは、その排気音の裏側に隠された、兄の悲鳴を聞き取っていた。

「……南東。柳生の方角だ」

 蓮真はカウルの破片をそっと拾い上げ、胸に抱いた。


 なぜ兄はこれほどまでに急ぎ、自らを傷つけながら走り続けるのか。生駒、京北、そして柳生へ。その点が繋がった先に何が待ち受けているのか、まだ少年には知る由もなかった。

 手の中にある破片からは、まだ微かに朔夜の体温と、焼け付くような拒絶の意志が伝わってくる。

 兄はここにいた。たった一人で、誰の助けも求めず、傷ついた体を酷使して未知なる脅威に抗った。そして、蓮真たちが辿り着くよりもずっと前に、再び夜の向こう側へと姿を消した。

「行こう、みんな。……兄さんの轍が、まだ温かいうちに。追いかけなきゃ、本当に見失ってしまう」

 蓮真の願いを受け、妖怪たちが再び慌ただしく動き出す。

 小鞠は蓮真を優しく、しかし離したくないという執着を込めて「座」へと誘い、再び彼を担ぎ上げた。

「お任せくださいませ、蓮真さま。私の鼻と耳がある限り、地獄の果てまであのお方のオイルの匂いを追いかけてご覧に入れますわ。……あ、でも蓮真さま。あまり無茶をなさると、私の喉が鳴ってしまいますから、お気をつけて?」


 舞い散る桜吹雪の中、蓮真を乗せた妖怪たちの集団は、再び夜の空へと漕ぎ出した。

 目指すは柳生。剣豪たちの魂が眠る、古の地。

 闇の計画が牙を剥く前に、兄の背中を捕まえることができるのか。

 月明かりに照らされた黒田の百年桜は、一人の陰陽師が残した凄絶な足掻きをその身に刻んだまま、静かに春の夜に沈んでいった。


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