表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

機械の鼓動、共鳴する残響

 生駒の山肌を撫でる風が、夜の深まりと共にその冷たさを増していく。

 二晩という月日は、アスファルトに残された物理的な痕跡を風化させるには十分な時間だった。しかし、霊的な視点で見れば、そこには未だに生々しい「暴力の記憶」がこびりついている。


「蓮真さま……もう、よろしいのでは? あのお方の残り香は、私たちのような者には毒に過ぎますわ。これ以上ここにいては、蓮真さまの清らかな霊力まで汚されてしまいます」

 蓮真の腕に縋り付く小鞠が、耳を伏せ、怯えた瞳で周囲を伺っている。

 確かに、この場所に立ち込める朔夜の霊力は苛烈を極めていた。それは、他者を寄せ付けまいとする強固な拒絶の意志であり、傷ついた獣が己の縄張りを守るために撒き散らした殺気そのものだ。

 だが、蓮真は動かなかった。ガードレールの焼け焦げた跡、そして路面にこびりついた、オイルと血が混じり合ったどす黒い染み。それを見つめる彼の瞳には、恐怖ではなく、言いようのない哀しみが湛えられている。

「……ううん、まだだよ。兄さんがどこへ行ったのか、何をしようとしているのか、ちゃんと聞き届けなきゃいけないんだ」

 蓮真は制服のポケットから、大切に握りしめていた「物」を取り出した。


 それは、数年前に朔夜が日本を去る際、無造作に机に放り捨てていった、旧いマシンのメインキーだった。使い込まれて角の取れた金属の鍵。そこには、朔夜が日々その指先で触れ、魂の一部を注ぎ込んできた「機械の鼓動」が、かすかな残響として封じ込められている。

 蓮真は路面に膝をつくと、その鍵を、朔夜の血とオイルが最も濃く残っている染みの上にそっと置いた。

「土御門の名において、命じる。――共鳴せよ」

 蓮真が静かに呪文を唱え、掌を鍵にかざす。

 その瞬間、彼を囲んでいた妖怪たちが一斉に息を呑んだ。

 蓮真の内側から溢れ出した、春の陽光のような柔らかな霊力が、冷たい鉄の鍵へと吸い込まれていく。すると、死んでいたはずの鍵が、まるで心臓を得たかのように不気味な脈動を始めた。

 カチ、カチカチ……。

 金属が鳴る音ではない。それは、遠く離れた場所で、今なお過酷な回転を続けるエンジンの「声」だった。


 蓮真の意識は、鍵を通じて時空を超え、兄が走る「現在」へと接続される。

 ――視界が、爆発的な加速に染まる。

 叩きつけるような夜風の音。壊れかけたマフラーが吐き出す、悲鳴に近い排気音。

 視界の端で、肩の傷口から溢れる血が、走行風に煽られて真後ろへと飛び散っていく。

 苦しいはずだ。痛いはずだ。

 なのに、ハンドルを握る兄の手は、微塵も震えていない。

 ただひたすらに、目の前の闇を切り裂くことだけに没頭している。

「……あ、が……っ」

 蓮真は、胸を締め付けられるような圧迫感に、思わず自身の胸元を掴んだ。

 鍵を通じて流れ込んでくるのは、情報の断片だけではない。朔夜が抱える、焼けつくような劣等感、一族への愛憎、そして自分を捨てたこの世界に対する、あまりにも不器用な献身。

 それらが、オイルの焼ける匂いと共に蓮真の脳内を蹂躙した。


「蓮真さま! しっかりしてください!」

 小鞠が叫び、蓮真の体を支える。

 蓮真は荒い息をつきながら、鍵から手を離した。鍵は再び、ただの冷たい鉄の塊に戻り、夜の静寂が戻ってくる。

「……見えた。兄さんが、どこへ向かおうとしているのか」

 蓮真はふらつく足取りで立ち上がり、生駒の山頂から「北」の空を指差した。

 そこは、彼らが住まう京都の街を超え、さらにその奥に広がる丹波の山々へと続く方角だった。

「兄さんは、生駒を降りた後、一度も街には寄っていない。このまま北へ……京都のさらに奥、京北を目指してる。目的はまだ分からないけれど……視えたんだ。深い闇の中に、真っ白な、大きな花弁が舞い散る光景が」

「京北……花弁……? あんな、山と森しかない辺境に、何があると言うのですか」

 妖怪の一人が首を傾げる。

 蓮真は脳内の記憶を懸命に検索した。土御門の修行で叩き込まれた、京都の北西、黒田の地にひっそりと佇む、伝説の桜。

「……百年桜だ。あそこには、黒田の百年桜がある。兄さんの意識が、あそこに向かっているのは間違いない。理由は分からないけれど、何かがあの場所で起きようとしているんだ」

 蓮真は、言い知れぬ不安に襲われた。


 なぜ、生駒の次は京北なのか。そこにはどんな繋がりがあるのか。

 今の彼には、その全容を把握することはできない。けれど、兄の意識が吸い寄せられるようにその地を目指していることだけは、掌の鍵がはっきりと告げていた。

 生駒から京北へ。その移動距離を、あのボロボロのマシンで走り抜けるのは、死を覚悟した行軍に等しい。

 しかも、道中には数多の「淀み」がある。兄の苛烈な霊力に引き寄せられた、凶悪な怪異たちが待ち構えているはずだ。

「兄さんは、一人で何かを終わらせるつもりなんだ。……あんなにボロボロになってまで」

 蓮真は再び、ポケットの鍵を強く握りしめた。

 兄が「鉄の獣」で夜を切り裂くなら、自分は「百鬼の足」でそれを追う。

 自分には免許もなければ、兄のような圧倒的な武の才能もない。けれど、この鍵が伝える兄の悲鳴を無視することだけは、絶対にできなかった。

「お願いだ、みんな。北へ向かってほしい。京北、黒田の桜がある場所へ!」

 蓮真が強く願うと、周囲の空気が一変した。

 彼の内から溢れる切実な想いが、妖怪たちの本能を揺さぶる。彼らにとって、蓮真の願いはもはや絶対の命令であり、同時に自分たちの存在意義そのものだった。

「お任せください、蓮真さま。我ら妖怪、全力を尽くして北へ向かいます!」

「あのおっかないお兄様の背中、必ず捕まえてご覧に入れますわ!」


 小鞠たちが蓮真を再び担ぎ上げ、一反木綿がその足元を補強するように展開する。

 次の瞬間、集団は重力を無視した速度で生駒の斜面を駆け下り始めた。

 アスファルトの上を走るのではない。建物の屋根、木々の頂、そして風の流れそのものを道として、彼らは北へと爆走する。

 眼下に広がる街の灯りが、光の川となって後ろへと流れていく。

 蓮真は風に煽られながらも、まっすぐに前を見据えていた。

 鼻をかすめる、かすかなガソリンの匂い。

 それは、どんなに離れていても、どんなに闇が深くても、蓮真が兄を見失わないための、唯一の道標だった。

「待ってて、兄さん。……今度こそ、その手を離さないから」

 少年を乗せた百鬼夜行は、宵闇を切り裂き、京都のさらに奥深き闇へと溶け込んでいった。

 生駒から京北へ。

 まだ見ぬ「巨大な意志」の、最初の一歩が踏み出されようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ