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術式の断片、独走のプレリュード

 生駒の夜は、都会のそれとは質の違う重い闇に閉ざされていた。

 急峻な勾配を縫うように走る旧道。街灯はまばらで、時折通り過ぎる風が、原生林の葉をざわつかせて怪物のみだらな囁きのように響く。

 その静寂を破ったのは、およそこの世のものとは思えない賑やかな足音だった。


「蓮真さま、足元が冷えますわ。もっと私の近くへ寄ってくださいな」

「何を言ってるのさ。蓮真さまを支えているのは僕なんだから、君は黙って前を見てなよ」

 月明かりの下、宙を滑るように進む奇妙な集団があった。

 一反木綿のような布状の妖怪に腰掛け、数人の女妖怪や小鞠たちに恭しく担ぎ上げられているのは、土御門蓮真だ。中学生らしい幼さを残す白い肌が、宵闇の中で淡い発光体のように浮かび上がっている。

 本来ならば陰陽師に調伏されるべき妖怪たちが、我先にと彼を崇め、その柔らかな指先に触れようと競い合っている光景は、土御門の歴史においても類を見ない異質さだった。

「みんな、ありがとう。でも、もう少し急いで。……兄さんの霊力が、この先に強く残っているんだ」

 蓮真の声には、いつもの穏やかさとは裏腹な切迫感が混じっていた。

 制服のポケットに深く差し込まれた手は、古いエンジンのキーホルダーを固く握りしめている。それは数年前、朔夜がロンドンへ発つ直前に、まるでゴミでも捨てるかのように蓮真へ放り投げたものだった。

 使い古された金属の冷たさが、今は蓮真の体温を吸って熱を帯びている。それが、離れた場所にいるはずの兄の、激しい動悸とシンクロしているようでならなかった。


 やがて、妖怪たちが不意に足を止めた。

 そこは、ヘアピンカーブの頂点付近。ガードレールが紙細工のように無残にひしゃげ、路面には激しく火花が散ったであろう鋭い傷跡が、アスファルトを深く抉っていた。

「蓮真さま……ここですわ。あの鉄の獣が、地の底のモノを食い破った場所は」

 小鞠が忌々しそうに、しかしどこか畏怖を込めて呟く。

 蓮真は妖怪たちの手からそっと降りると、吸い寄せられるようにその惨状の只中へと歩み寄った。

「これは……」

 蓮真は膝をつき、路面に残された黒い線を指でなぞった。

 それは単なるスリップサインではない。大型バイクの太いリアタイヤが、強大なトルクによって路面を削り取り、そこに朔夜の苛烈な霊力が「線」として定着している。

 土御門一族の大人たちは、これを朔夜の操縦ミスだと断じた。だが、蓮真の目には全く別の真実が映っている。この轍は、襲い来る多種多様な怪異の動きを読み切り、その霊的脈動を断ち切るために、バイクという巨大な筆で描かれた「術式の断片」だった。

 だが、その力強い轍に混じって、蓮真の瞳は決定的な「悲鳴」を捉えた。

 アスファルトに、どす黒い液体が点々と続いている。ガソリンの匂いに混じる、粘り気のある重油の香り。それは、マシンの心臓部であるクランクケースが破損し、命の灯火が漏れ出している証だった。

「兄さん、怪我をしてるだけじゃない……。バイクも、もう限界なのに」

 滴るオイルの跡は、さらにその奥に広がる血の点跡と重なっていた。


 一族の誰にも頼らず、自分を化物のように恐れる日本を救うために、壊れかけたマシンと体を引きずって夜の闇を独走する。その孤独な背中を想像し、蓮真の胸に熱いナイフを突き立てられたような痛みが走る。

「兄さんはいつもそう。自分を醜い一匹狼だって決めつけて、光の中に誰も入れようとしない。でも……こんなにボロボロになってまで、誰のために走ってるのさ!」

 蓮真の叫びに呼応するように、周囲の空気が震えた。

 彼の内側から溢れ出した純粋な霊力が、夜の闇を黄金色に染め上げる。その圧倒的な「愛」の波動に、周囲の妖怪たちは一瞬恍惚とした表情を浮かべ、直後に一斉に平伏した。

「行こう、みんな。このオイルの跡を辿って。兄さんが、あの強がりな背中を丸めて倒れてしまう前に……僕が追いつかなきゃいけないんだ」

 蓮真は立ち上がり、夜の先を睨んだ。


 生駒から西へ、あるいは南へ。このオイルの滴りは、日本を覆う巨大な「負」の連鎖を断ち切るための、唯一の道標。

 中学生の少年は、再び妖怪たちの手によって担ぎ上げられた。

 神速で夜を切り裂く黒い影と、それを慕って追いかける百鬼夜行。

 土御門兄弟の、長く過酷な「追走劇」が、今、本格的に幕を開けた。


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