紅蓮の帰還、逢坂山の検問
繖山の麓。草むらに隠されていた朔夜の愛車――漆黒のリッターネイキッドは、もはや無事な箇所などどこにもない無惨な姿を晒していた。不規則なアイドリングが、死の間際の喘ぎのように夜の静寂に刻まれる。割れたヘッドライトの隙間からは、ショートした配線がチリチリと火花を散らし、熱を持ったエンジンからは、白い煙が絶え間なく立ち昇っていた。
「……すまない。もう少しだけ、俺の我がままに付き合ってくれ」
朔夜が血の滲む手でタンクを撫でると、バイクは一度大きくノッキングし、最後の力を振り絞るように低い爆音を上げた。
「蓮真、お前は……」
「言い訳は無用よ、お兄様」
朔夜の言葉を遮ったのは、冷ややかな、しかし絶対的な拒絶を孕んだ白妙の声だった。彼女は既に巨大な白銀の妖狐へと姿を変え、その九つの尾で蓮真を優しく、しかし強固に自分の背へと引き寄せている。
「私の血を分けたこの子を、そんな今にも爆発しそうな鉄屑に乗せるなど、この私が許すとでも思っているのかしら? 貴方は、その壊れかけの相棒とせいぜい遅れないようについてくることね」
「……フッ、手厳しいな。……分かった。蓮真を頼む、白妙」
朔夜は苦笑しながらヘルメットのシールドを下ろし、スロットルを回した。未だ妖怪に対しては一線を引く彼だが、蓮真を護る白妙の力だけは認めざるを得ない。
「行くぞ。……遅れるな」
朔夜がバイクを発進させる。その傍らを、蓮真を乗せた白妙が並走した。さらに、その少し前方を進むのは、一枚の強靭な布と化した一反木綿と、その背にしっかりと爪を立てて跨る小鞠だ。
「……チッ、あんな堅物の守護なんて、猫が知ったことではありませんわ! 蓮真さまの道を塞ぐものは、誰であろうと切り刻みます!」
「おい、猫公、しっかり捕まってやがれ! 坊っちゃんの道を切り開くぜ!」
妖怪たちは互いに嫌悪を隠そうともしない朔夜の盾となるつもりはなく、あくまで蓮真を安全に洛中へ送り届けるための「露払い」として動く。
一行は国道8号線を西へ。滋賀と京都の境界、真っ赤に染まった空の下、街道を封鎖するように数台の黒塗りのセダンが陣取っていた。官邸直属の「陰陽師庁」実行部隊。彼らは、保守的な長老たちによって「禁忌に触れて暴走した」と断定された追捕対象――土御門朔夜を、厳重に待ち構えていた。
「……止まれ! 逆賊・土御門朔夜! 直ちに停車せよ! 抵抗すれば射殺する!」
スピーカーを通した冷徹な警告。同時に、霊力を増幅させる「呪磁力銃」の銃口が一斉に兄弟を向く。
「兄さん、危ない!」
「黙って見ていろ、蓮真。……これしきのことに、遅れを取る俺ではない!」
朔夜が限界を超えてスロットルを回した。壊れかけたネイキッドが上げる悲鳴は、黄金の雷鳴へと変わる。
「指名手配か……。皮肉なものだな。室町より代々、『表』として都を守ってきたこの土御門の名を継ぐ俺自身が、今や世界を救うために『逆賊』として同族に追われるとは!」
「問答無用! 放て!」
放たれた呪力の弾丸。だが、それは先行する朔夜のバイクから放たれた黄金の雷撃によって空中で叩き落とされ、さらに並走する白妙の、空間そのものを拒絶する障壁によって霧散した。一反木綿と小鞠は、彼らを無視してさらにその先にある防衛線へと突っ込み、呪磁力銃を構える陰陽師たちの陣形を物理的に瓦礫ごと蹴散らしていく。
そして次の瞬間、朔夜は黄金の雷鳴と化したバイクを、封鎖線の中心へと突き刺した。
――「雷走・縮地」。
割れたヘッドライトから強烈な光が溢れ、一台のバイクが光の矢となって封鎖線を突き抜ける。
それは、満身創痍の体でありながらも、土御門の名を冠する実力差を圧倒的に見せつける突破だった。
追っ手たちが展開していた呪縛の陣を紙細工のように引き裂き、一行は逢坂山のトンネルを抜け、山科へと突っ込んだ。
しかし、トンネルを抜けた先に広がっていたのは、もはや知っている「山科」の街ではなかった。
家々の壁面からは不気味な肉腫が突き出し、空からは逆五芒星が放つ「異界の毒」が黒い雨のように降り注いでいる。
「……ひどい。これが、完成した結界の姿……」
「身内の疑念に時間を取られすぎたか。……だが、どれほど汚名を着せられようと関係ない。……行くぞ、蓮真!」
朔夜は、今にも止まりそうなエンジンを無理やり回し、襲いかかる異形たちを黄金の放電で焼き散らしながら、瓦礫の山を飛び越えていく。白妙は蓮真をその背にしっかりと乗せ、黄金の瞳を爛々と輝かせながら、一反木綿と小鞠を従えてその横を風のように駆け抜けた。
ボロボロの鉄塊から立ち昇る白煙と、誇り高き白銀の妖狐の疾走。
土御門の矜持を胸に抱く兄弟は、滅びゆく都を救うため、絶望に沈む街道を洛中へ向けてひた走る。




