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湖東の闇、逆流する霊脈

 大津の関を越えた一行は、迷わず北東へと舵を切った。内陸を進む国道8号線ではなく、琵琶湖の波打ち際をなぞるように走る「さざなみ街道」を選択したのだ。

 白妙の背に乗る蓮真の目には、戦慄すべき光景が広がっていた。

 かつて母なる湖と呼ばれた琵琶湖の水面が、月光を浴びているはずなのに、底なしの墨汁を流し込んだようにどす黒く濁っている。芦屋が打ち込んだ四つの光柱から漏れ出した呪いが、湖という巨大な霊的溜まり場に流れ込み、この地の循環を完全に止めてしまっていた。

「坊や、見て……。湖の精霊たちが、苦しみながら山へ吸い寄せられているわ」

 白妙の言う通り、黒い湖面から立ち昇る白い淡気が、すべて巨大な意志に引かれるように、行く手にそびえる繖山きぬがさやまへと集まっていく。その光景は、山そのものが近江の生命力を根こそぎ啜り上げているかのようだった。

「一反木綿、防御を固めてくれ。ここからは敵の『目』が直接届く範囲だ」

「分かってるぜ、坊っちゃん! 隙間なくガードしてやる!」

 蓮真の胸から肩にかけて、一反木綿が強靭な防具のように幾重にも巻き付き、主の急所を護る「白い甲冑」と化す。首を絞めぬよう、胸元でしっかりと結ばれた布地は、蓮真の鼓動と共鳴して白銀の輝きを増していた。


 やがて、夜闇の中に繖山の巨大な影が立ちはだかった。

 かつて六角氏が広大な山域に数多の石垣を築きながらも、信長の軍勢を前にその真価を発揮することなく歴史の表舞台から消えた、観音寺城跡。あまりに広大すぎたその構造は、今や芦屋の手によって、生者を拒み、呪いを増幅させるための「巨大な石の迷宮」へと書き換えられていた。

「……兄さんは、あの頂にいるんだね」

 蓮真は、左目の黄金の瞳を細めた。

 山頂から放たれるのは、圧倒的な「雷」の気配。だがそれは、かつての朔夜の晴れやかな力ではない。絶望という負の感情を触媒に、敵の術式によって無理やり引き出された、暴走寸前の破壊の光だ。

「戦いに行くんじゃない。……兄さんの心にかけられた『呪いの鍵』を外すんだ。僕にしかできない、僕たちの術で」

「ええ……。でも、お兄様を囲む『影』は容赦しないわよ。小娘、遅れないことね」

「分かっておりますわ、白妙さま! 蓮真さまの背中は、この小鞠が死守いたします!」

 一行は湖畔の街道を外れ、観音寺城の険しい登城口へと突っ込んだ。


 道とは名ばかりの、崩れた石垣と根を張る巨木が阻む険路。だが、今の蓮真には白妙の力が宿っている。白銀の軌跡を描きながら、一行は重力を無視するように垂直に近い斜面を駆け上がっていく。

 その行く手に、芦屋が配置した最精鋭の「式神」たちが立ち塞がる。

 しかし、蓮真の瞳に迷いはない。

 兄を孤独な戦いから解放し、芦屋の描いた残酷な盤面をひっくり返すために。

 白銀の閃光は、近江の闇を切り裂き、いよいよ運命の山頂へと迫っていた。


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