血の共鳴、禁忌の盟約
庭の池から這い出した「影」は、人の形を保つことすら拒む、不定形の泥の塊だった。
だが、そこから放たれるのは紛れもない、芦屋が練り上げた昏い殺気だ。影が動くたび、周囲の竹林が瞬時に枯れ、結界の端々から火花が散る。
「……ッ、はぁっ!」
蓮真は懐から引き抜いた十数枚の呪符を扇状に放った。
安倍の家系に伝わる防御陣「五行封殺」。本来なら並の怪異を消滅させるはずの術式だが、影はそれを嘲笑うように飲み込み、さらに巨大化して蓮真へと迫る。
「蓮真さま、危ない!」
小鞠が割って入り、鋭い爪で影を切り裂く。だが、切った先から泥は結合し、小鞠の腕に呪いの痣を刻みつけた。
「ああっ……!?」
「小鞠! ……くそっ、僕の術じゃ、この呪いには干渉すらできないのか……!」
蓮真は唇を噛み切った。
どれほど古文書を読み込み、理論を完璧にしても、実戦での「絶対的な霊力の出力」が足りない。兄・朔夜なら雷鳴一閃で消し飛ばしていただろう。だが、自分にはそれがない。
その時、背後で冷たく、けれどどこか熱を帯びた声が響いた。
「坊や。……まだ、自分の指の皮一枚を傷つけるのを恐れているのかしら?」
白妙が、蓮真の肩にそっと手を置いた。彼女の指先が触れた瞬間、蓮真の全身を走っていた恐怖が、ゾクリとするような高揚感に上書きされる。
「契約、しましょう。言葉や名前なんてまどろっこしいものは要らない。……貴方の血を、私に頂戴。そして私の血を、貴方のその清らかな血管に流し込んであげる」
「血を……交わすっていうのか」
「ええ。霊力の根源である血を通じ、魂を共鳴させる。それは貴方が『人間』として終わる始まりになるかもしれないけれど……お兄様を救い、あの傲慢な術者を討つための、唯一の切符よ」
蓮真は、苦悶に満ちた小鞠の表情と、屋敷を侵食していく闇を見つめた。
そして、迷いを断ち切るように、手にした呪符の鋭い縁で自らの掌を深く引き裂いた。
「……分かった。僕の血で良ければ、全部持っていってくれ。その代わり、力を……兄さんの元へ届くための力を貸してくれ、白妙!」
蓮真が血に濡れた手を差し出すと、白妙は艶やかに微笑み、その手を自らの口元へと引き寄せた。
尖った犬歯が蓮真の傷口に触れ、熱い霊力が吸い上げられていく。同時に、白妙もまた自らの手首を鋭い爪で切り裂き、溢れ出す黄金色の霊血を蓮真の口元へと差し向けた。
「飲みなさい、坊や。……これが、千年の森を支配した私の『生』そのものよ」
蓮真は、人外の熱を孕んだその血を飲み干した。
――瞬間、視界が真っ白に弾けた。
心臓が爆発したかのような衝撃。血管を駆け巡るのは、氷のような冷たさと、溶岩のような熱さが混ざり合った「暴力的な霊力」だ。蓮真の瞳が、人間のものではない黄金色に染まり、背後には巨大な九本の尾を模した、白銀の燐光が立ち昇る。
「……が、ああああああああっ!!」
蓮真が吠えた。
その声一つで、屋敷を覆っていた影の泥が、まるで太陽に晒された雪のように一瞬で蒸発し、消滅した。
静寂が戻った庭園で、蓮真は荒い息を吐きながら膝をついた。
その右腕には、白妙の紋章を思わせる、複雑な呪印が刻まれている。
「……大した……力だ。これなら……」
「あら、まだ馴染み始めたばかりよ。……今夜は、その力の『飼い慣らし方』をじっくり教えてあげるわ」
白妙は、満足そうに蓮真の背中を抱きしめた。
血を交わし、魂を分け合った二人。小鞠はそれを見て、救われた安堵と、蓮真が遠くへ行ってしまうような孤独感に、小さく肩を震わせるしかなかった。




