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猪名川の波紋、深淵の恋心

 能勢の険しい山並みを背に、白妙の疾走はようやく開けた河原へと辿り着いた。

 視界の先には、多田神社の鬱蒼とした森を抱く、摂津の街並みが広がっている。しかし、その手前を横たわる猪名川の光景に、白妙は地を削るような勢いでその爪を立て、足を止めた。

「……ひどいものね。水の神気も、風の理も、すべてが泥のように腐っているわ」

 白妙が忌々しげに吐き捨てる。


 眼前の猪名川は、もはや清流とは呼べない代物に変貌していた。どす黒く淀んだ水面からは、重油のような粘り気のある呪霧が立ち昇り、水底からは無数の亡霊たちが救いを求めるように、青白い腕を虚空へと伸ばしている。

 この川そのものが、五芒星を焼き付けるための巨大な「毒の堀」と化していた。神格に近い白妙であっても、この規模の汚染に直接触れれば、その身に宿る霊験を削り取られ、ただの野狐へと堕とされかねない。

「白妙さん、どうしたの? 兄さんの気配が、すぐそこまで……対岸から聞こえるんだ!」

 蓮真は白妙のたてがみに縋り付き、身を乗り出すようにして対岸を見つめた。

 その時、不気味に静まり返っていた川面が、不自然に盛り上がった。

 

 ドロリとした黒い水が左右に分かれ、そこから、月光を反射する真珠のような輝きを放つ「何か」が躍り出た。

「……あら。陸の狐が、ずいぶんと可愛らしい『供物』を連れてきたものね」

 水飛沫と共に岩場に腰を下ろしたのは、淡い碧色の髪を夜風になびかせた、妖しくも美しい人魚だった。腰から下は、深海を思わせる深い藍色の鱗に覆われた滑らかな尾。名はしずく。猪名川の霊脈を司る、水神の末裔である。

 雫はびしょ濡れの長い指先で、自分の薄い唇をなぞりながら、白妙の背に乗る蓮真をじっと見つめた。その瞳は、暗い水底に沈むサファイアのように、冷たく、そして狂おしいほどの熱を帯びている。

「坊や。そんな獣臭い狐の毛並みに埋もれているより、私の冷たくて滑らかな腕の中に溺れてみたくはない? 貴方の瞳……この川の底に沈むどんな秘宝よりも澄んでいて、私の心をかき乱すわ」

「……また、増えたわね。坊や、貴方という子は、本当に罪深いわ」

 白妙が喉の奥で殺気立った唸り声を上げ、その巨大な九本の尾を扇のように広げた。

 しかし、雫はそれを鼻で笑うと、重たげな尾びれでパシャリと濁った水を撥ね上げた。

「今の貴女に、この川を渡る力はないわよ、白妙。不用意に踏み込めば、その綺麗な白い毛並みも、ドブネズミのように汚れてしまう。……でも、私が道を作ってあげてもいいわ」

 雫は岩場を滑るように蓮真へと近づき、水面に映る彼の影を愛おしそうに撫でた。

「そうね、その坊やを、一度だけ私の唇で『浄化』させてくれるなら。貴方のその甘い吐息を、私のこの渇いた喉に流し込んでくれるなら……この呪いを一時だけ、私の支配下に戻してあげる」

 雫の瞳に宿ったのは、一時の気紛れではない。ここ数十年の間、工業排水や都市の喧騒に汚れ、濁っていく水底で孤独に耐えてきた彼女が、ようやく見つけた「純白の魂」への、底なしの愛執だった。

「分かった! お願いだ、雫さん!」

 蓮真が食い気味に叫んだ。

 その真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳に射抜かれ、雫は虚を突かれたように目を見開く。

「僕は、兄さんを助けなきゃいけないんだ。そのためなら、僕にできることなら何でもする。だから、この川を渡らせてくれ! 兄さんが、これ以上独りで苦しまないように!」

「……ああ、なんて健気。なんて清らか……。ああ、堪らないわ」

 雫は陶酔しきったように溜息を漏らし、その上半身を蓮真の方へと大きく乗り出した。

 

「いいわ。気に入った……いいえ、愛してしまったわ。貴方のその真っ直ぐな心に、この川の主として、そして一人の女として応えてあげる」

 雫が鋭く、天を突くような歌声を上げた。

 刹那、どろりと濁りきっていた猪名川の水が、咆哮と共に左右へと割れた。川底に現れたのは、あらゆる呪いを退ける、清冽な水晶の道。

 

「行きなさい、愛しい坊や。ただし、忘れないで。貴方がお兄様を助けたその時は、私の冷たい水の底で、永遠に、二人きりで愛を語ってもらうわよ?」

「ありがとう、雫さん!」

 蓮真が必死に叫ぶ。白妙は「誰が貴女なんかに!」と毒づきながら、割れた水路を電光石火の勢いで駆け抜けた。

 背後で、雫の愛執に満ちた視線が蓮真の背中を焼き、前方では、ついに朔夜の絶叫と、それを蹂躙する魔の笑い声が轟く多田神社の境内が、その全貌を現した。


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