能勢の白華、惑わしの白妙
カラン、コロン。
湿った空気を叩く硬質な音が、霧の奥から一定の刻みで近づいてくる。
蓮真は濡れた着物の上から自分の肩を抱き、震えながらその影を凝視した。
「だ……誰ですか」
返事の代わりに、甘い香りが一層強く鼻腔を突いた。それは春の夜の、狂おしいほどに濃厚な花の匂い。
霧がカーテンのように左右へ分かれる。
そこに立っていたのは、季節外れの、けれどこの世のものとは思えないほど美しい、純白の着物を纏った女性だった。
白一色の着物は、肩のあたりが大胆に崩され、そこから覗く肌は霧よりも白く、透き通っている。
長い黒髪の合間から覗くのは、誇らしげに立った、雪のように白い狐の耳。
「おや……。これは随分と、瑞々しい子が落ちてきたものね」
女――白妙は、朱塗りの番傘を差し、首を僅かに傾けて蓮真を見下ろした。
彼女の黄金色の瞳が、獲物を定めるように細められる。その眼差しに射抜かれた瞬間、蓮真は体が金縛りにあったかのように動かなくなった。
「あ……」
白妙は一歩、また一歩と、音もなく距離を詰める。
彼女が動くたびに、背後に隠しきれない数本の白い尾が、まるで意思を持つ生き物のようにゆらりと揺れた。
「……狐の、妖怪?」
「ふふ、ご挨拶ね。私は白妙。この能勢の奥座敷で、もう百年ほど退屈を弄んでいたのだけれど……。まさか、天がこんなに私好みの霊力を持った『迷子』を降らせてくれるなんて」
白妙は蓮真の目の前で足を止めると、そっと傘を閉じ、その白い指先で彼の濡れた頬をなぞった。指先は驚くほどに温かく、そして微かに震えている。
「……なんて清らかで、透き通った……。それでいて、その奥に秘めた真っ直ぐな覚悟。ねぇ、坊や。貴方の魂、とても綺麗。食べちゃいたいほどに……いいえ、抱きしめて、私のものにしてしまいたいほどに」
白妙は蓮真の拒絶を許さぬまま、彼の首筋に顔を寄せ、深く、深くその匂いを吸い込んだ。
猫娘のそれとは格が違う。古の神気と、抗いがたい妖気が混ざり合った圧倒的な存在感。蓮真の心臓が、恐怖とは違う高鳴りを始める。
「や、めて……。僕は、多田に行かなきゃいけないんだ。兄さんが……兄さんが大変なんだ!」
蓮真は必死に声を絞り出した。
白妙は一度、艶やかに目を細めて離れると、愉快そうにくすくすと喉を鳴らした。
「多田? ああ、あそこの源氏の連中なら、今頃まとめて魔の餌食よ。……貴方のような、まだ芽吹いたばかりの蕾が行ったところで、何ができるというの?」
彼女の指が、蓮真の胸元――朔夜の愛車の破片が入った懐――に、滑り込むように触れた。
「死なせたくないわ。これほど私を昂らせる魂に出会ったのは、いつ以来かしら。……いいわ、坊や。貴方が気に入った。心の底から、ね」
白妙は蓮真を抱き寄せ、その柔らかな胸元に少年の頭を包み込むように抱いた。
「私が貴方の『脚』になってあげる。道中の邪魔な虫けらも、すべて私が噛み殺してあげるわ。その代わり……事が済んだら、たっぷり可愛がらせてちょうだいね? 拒否権はないわよ」
白妙の瞳に宿ったのは、一時の気紛れではない。それは、何百年もの孤独を埋める獲物を見つけた、底なしの執着の火だった。
「……さあ、行きましょう。貴方の追いかける『雷鳴』が、まだ消えないうちに」
白妙が大きく裾を翻すと、彼女の姿は一瞬にして雲を裂くような巨大な白狐へと変じた。
蓮真はその圧倒的な神威に圧されながらも、差し出された白い背へと必死に這い上がった。




