能勢の迷霧、断たれた絆
京都を出発した一反木綿の背の上で、蓮真は防風のための呪を握りしめていた。
亀岡を過ぎ、兵庫県境の能勢に入ると、周囲の景色は一変した。春の穏やかな陽光はどこへやら、行く手を阻むように立ち込めてきたのは、陽光を一切通さない、粘り気のある「墨色の霧」だった。
「……蓮真さま、しっかり。風の様子がおかしいですわ」
蓮真の前に座る小鞠の背中が、戦慄したように硬くなる。彼女の敏感な耳は、霧の奥で蠢く「何か」の羽音を捉えていた。
それは自然の霧ではない。霊脈を無理やり捻じ曲げ、負の感情を煮詰めたような、ドロリとした呪霧だ。
「ヒッ……! 坊ちゃん、これはいけねぇ、風が、風が食われてやがる……っ!」
足下で一反木綿が悲鳴を上げる。
その直後、霧の奥から「シュッ」という無機質な音が響いた。
音に反応する間もなかった。
霧を切り裂いて飛び出してきたのは、実体を持たない「影の棘」の弾幕だった。
「しまっ……! 蓮真さまっ、伏せて!」
小鞠が反射的に蓮真を抱き寄せ、その背を丸める。彼女の鋭い爪が影の棘を幾筋も叩き落としたが、敵の狙いは彼らの殺害ではなかった。棘の一本が一反木綿の端を貫き、そこから黒い墨のような呪いが侵食を始める。
「ぎゃああああっ! 体が、体が動かねぇ! 坊ちゃん、すまねぇ……!」
巨体の一反木綿が、制御を失った凧のように錐揉み状態に陥る。
能勢の険しい谷底へ向かって、一行は猛スピードで落下を始めた。
「一反木綿! 小鞠!」
蓮真が叫んだ瞬間、二度目の追撃が彼らを襲った。今度は弾幕ではない。周囲の霧が巨大な「渦」となり、蓮真の体だけを強引に吸い上げたのだ。
「放せっ!」
蓮真は指先で呪印を結ぼうとしたが、渦が放つ強烈な重圧がそれを許さない。
小鞠が必死に手を伸ばす。彼女の指先が、蓮真の袖に掠める。
「蓮真さま……! 蓮真さまぁっ!」
小鞠の絶叫が、霧の向こうへと遠ざかっていく。
蓮真の視界から、仲間の姿が消えた。
叩きつけられるような衝撃。
蓮真の体は、急斜面の笹藪を何度も跳ねながら転げ落ちていった。カチカチと歯が鳴り、全身を襲う痛み。どれだけ転がっただろうか、不意に足場が消え、視界が反転した。
――ボチャンッ!
冷たい水の感触が、全身を包んだ。
能勢の山中を流れる、名もなき渓流だった。春の雪解け水を含んだ流れは容赦なく冷たく、蓮真の体温を一瞬で奪い去る。
蓮真は必死にもがき、岩場にしがみついて這い上がった。
「はぁっ……はぁっ……小鞠、……一反木綿……」
震える声で呼びかけても、返ってくるのは冷たい水のせせらぎと、霧に閉ざされた森の沈黙だけだった。
さっきまであった小鞠の温もりも、一反木綿の賑やかな声も、今はどこにもない。
一人になった。
蓮真は濡れ鼠になった体を引きずり、霧に煙る森の奥へと歩き出した。
一歩踏み出すたびに、不安が足元から這い上がってくる。
兄さんは、今この時も戦っている。
自分が「都を滅ぼすための道具」にされているとも知らず、一人で血を流している。
「……行かなきゃ。立ち止まってる暇なんて、ないんだ……」
自分に言い聞かせるように呟く。けれど、震える足は思うように動かない。
霧はさらに濃くなり、方向感覚さえ奪っていく。
その時だった。
深い霧の向こう側から、どこか浮世離れした、甘く艶やかな香りが漂ってきた。
沈香か、それとも名もなき花の残り香か。
それと同時に、カラン、コロン……と、静かな森の静寂を乱す、硬質な「下駄の音」が聞こえてきた。
「……誰?」
蓮真が身構える。
霧を透かして見えたのは、古びた、けれど手入れの行き届いた真っ赤な鳥居。
その下に、まるで最初からそこで彼を待っていたかのように、その「女」は立っていた。




