第29話 得たものと失ったものと
アンディは、人形のように動けなくなったアガサを少し移動させ、彼女とドアの前に衝立を置いた。
「不自由な思いをさせてごめんね。実は、この魔法薬は体が麻痺するだけじゃないんだ。心音も体温も呼吸も分からなくなり、見た目では死んだのと変わらない。別名『仮死の薬』と呼ばれている。もちろん違法だよ。今は殆ど作られることはないから、魔法薬師のアガサでも知らないと思う」
なぜ、アンディはわざわざそんなことを教えるのだろう? アガサが考えあぐねているうちに、扉の向こうから騒々しい足音が聞こえてきた。
「そろそろ来たか……早かったな」
アンディの声が遠くなる。座っていた状態から立ち上がったのだろう。間もなくバン! と扉が開け放たれる音が聞こえ、アガサの胸は否応なしに踊った。
「アガサをどこにやった!」
「思ったより早かったね。どうしてここが分かったの?」
「アガサはどこだと聞いている。質問に答えろ」
「ジェフリーったら必死になっちゃって……いつもの余裕ぶった態度が台無しだ」
クスクス笑いながら言うアンディにジェフリーが詰め寄る音がした。
「ふざけるな……彼女の身に何かあったら誰だろうが許さない」
食いしばった歯から声を絞り出すようにジェフリーは毒付いた。ジェフリーこんな一面があったなんて。目に見えなくても、混じり気のない怒りをひしひしと感じる。アガサは、自分が心配されているにもかかわらず恐怖感すら覚えた。
「ちゃんと彼女に会わせてやるから慌てるなよ。それよりどうしてここが分かったの?」
「本人には内緒で発信機を付けた」
「内緒とか、ひどい夫だね!」
「全てはお前をおびき寄せるためだ。いつかボロを出すのを待っていた」
「それで妻を囮にしたってわけか! アガサも愛されたもんだ!」
アンディはけたたましく笑いながら、ジェフリーを挑発した。アガサと話していた時の憔悴した様子とは打って変わって、鬼気迫ったものを感じる。まるで別人だとアガサは驚く他なかった。
「じゃあ、最初から僕を疑ってたんだ? 優しい従兄弟の振りをして?」
「お前を疑ったのはごく最近、アガサから十年前の詳しい話を聞いた後だ。部屋の中で毒ガスを散布した割には、何の痕跡も残ってなかった。これだけ鮮やかに痕跡を消せるのは風魔法でなければ無理だ」
「さすが……ジェフリーは何でもお見通しだな」
「それとゴーレムの件……あれもお前だろう?」
「ジェフリーならあっさり見破ると思ってたよ。土魔法ならエルザを疑ってくれるかなと期待してたんだけど」
ここで会話が止み、長い沈黙が耳を刺す。アガサは視界を遮られているから、この沈黙が恐ろしくてたまらなかった。一体何が起きているのだろう? 感情が昂っても身動き一つ取れないのがもどかしい。
沈黙を破ったのはジェフリーの方だった。彼の声が聞こえてふっと気が緩む。
「これで知りたいことは全部か? さあ、アガサに会わせてくれ」
「分かったよ。この衝立の後ろに――ほら!」
アンディが衝立を退けた音がする。ジェフリーはすぐさまアガサの傍らに駆け寄った。頭と頬を撫でられる感触を覚える。アガサはジェフリーの名前を呼びたい衝動に駆られたがそれは叶わない。代わりに彼が息を呑むのが分かった。
「アンディ、アガサに何を……」
ジェフリーの声がわなわなと震える。アンディは逆にハイテンションでまくし立てた。
「ここからが本番だ! この時を待っていたんだよ! ねえ、天才魔法使いさん、愛する奥さんを甦らせてみなよ、死者蘇生術を使って!」
待って、ジェフリーはそれを使えない! もし動けたなら、アガサはそう口走っていただろう。死者蘇生術を始めとした、自然の理を覆すほどの強力な魔法は使用が禁じられているのだから。
でも、アンディはきっとそれが狙いなのだ。ジェフリーなら自分のために手を汚すのも厭わない。それを見越しての挑発だと考えた。
(あれ? それならなぜ私を直接殺さなかったの?)
ふと別のことを考える。アガサを本当に死なせなければ、死者蘇生術をかける意味がないではないか。
アンディの言葉がよみがえる。この薬は仮死の薬。ジェフリーが意味のないことをした結果取り返しのつかないことになったら――絶望はより深くなるに違いない。二重に張り巡らされたアンディの策略に、アガサは恐れわなないた。
(惑わされないで、ジェフリー! これは罠よ!)
アガサは全身に力を込めて動こうとしたが、ぴくりともしない。焦るあまり頭がパニックになったが、体が思い通りにならない。これはとても恐ろしいことだった。
ジェフリーが刑に服せば、せっかく再会して心が通じ合ったのにまた離れ離れになってしまう。そんなことは死んでも嫌だ。どうにかして伝えなければならないのに――。
今思えば、アンディが自分に説明したのも、この恐怖を植え付けるためだったのだ。情報を与えた上で自由を奪う。彼は本物の悪魔だった。どこまでも自分は甘かった。
「さあどうする? 光と闇の魔法の最終形態、死者蘇生術を使えよ! そうすればアガサは生き返るよ! ジェフリーなら簡単だろう?」
「お前はそんなに光と闇の魔法を見たいのか?」
「歴史の証人ってやつになりたいんだよ。光と闇の魔法が使えないならば、せめて禁術をこの目に収めたい」
「僕は、アガサを助けるためなら何でもする。たとえ自分を犠牲にしても。もう二度と手放したくないんだ」
ジェフリーが苦々しく呟く。アガサの懸命の叫びも空しく、彼は呪文の構えを取った。目が見えないアガサでもそれが分かったのは、場の空気が一変したからだ。
(ああ、もう駄目だ……おしまいだ……)
アガサが絶望のどん底に落ちる中、呪文の詠唱が始まった。
「万物の祖よ 生々流転する生きとし生けるものよ 在し姿に戻れ」
(ん? これは?)
この呪文は聞いたことがある。カイルの病室で唱えた「反転」の呪文だ。
(死者蘇生術じゃない! どういうこと?)
アガサが混乱していると、徐々に全身の緊張が取れてきた。見えない檻に閉じ込められた状態からだんだん身動きできるようになってくる。まぶたを開くと、ジェフリーの緑色の目とぶつかった。彼は泣きそうな顔でアガサを見つめていた。
「ジェフリー……」
彼の名を呟くと、力強く抱き起こされ、彼の胸に強く押しつけられる格好となった。
「アガサ……よかった……」
アガサを強く抱きしめたままジェフリーが嗚咽している。アガサの目からも涙がこぼれ、元に戻ったんだという自覚が湧いてきた。
「どうして……こんな……」
離れた場所でアンディがつぶやくのが聞こえる。ジェフリーはアガサを抱きしめた姿勢のまま、顔を向けることなく彼の疑問に答えた。
「アンディは好きな人を本当に殺めることはできないと思った」
「なんでそれを……」
「十年前から気づいていたよ? アガサの話をした時に目の色が変わって、それ以来、話題に出すのを控えてたもの」
「そんな……魔法以外は鈍感じゃなかったのかよ……」
アンディは膝から崩れ落ち、床に手をついて、乾いた声で笑った。
「アガサに使ったのは『仮死の薬』だろう? 風魔法で痕跡を消したのも十年前と同じだ。これは体内への影響が消えれば自然に治癒する。許可なく『反転』を使っても大したお咎めはないだろう」
「ああ、そうなんだ……もういいよ! 完敗だ! もうおしまいだよ!」
アンディは自暴自棄になって吐き捨てたが、ジェフリーはぎろりと睨みつけた。
「勝手に終わらせるなよ。こっちはまだ済んでいない。十年間受けた痛みを少しでも返さないと気が済まない」
ジェフリーはアガサから身を離し、アンディの方へつかつかと歩み寄った。そしてへたり込むアンディの胸ぐらを掴み、思い切り頬を殴った。
「ジェフリー!」
アガサが思わず叫ぶ。ジェフリーはそれを無視し、倒れ込んだアンディに馬乗りになって拳を叩き込んだ。
「これはアガサの分、これはタマラの分、そして、重傷を負ったカイルの……」
ジェフリーは泣きながらアンディを殴った。アガサの時とは違う、今度は悔しさと怒りの混じった涙だ。歯を食いしばりながら、必死の形相でアンディをなじる彼を見て、アガサはなす術もなく見守るしかなかった。
「お前相手に魔法を使うなんてもったいない。拳で十分だ。これが見たかったんだろう? 僕が悔しがって泣く様が。これで満足か?」
「…………ああ、満足だ」
アンディは力の抜けた顔をにやりと歪ませた。それを見てジェフリーは手を止め、よろよろとした足取りでアンディから離れた。
「アガサごめんね……怖い思いをさせたね。もう、僕に対して何の情も残ってないだろう?」
アンディが天井を見つめたまま呟く。アガサは、はっと顔を上げてアンディを見つめた。
「…………そうね。あなたのやったことは許せない。でも、あなたの苦しみにもっと早く気付けていたらとも思う」
「ハッ…………どこまでお人好しなんだか」
アンディはそう言ったきり目を閉じた。間もなく、ジェフリーが呼んだ警察がアンディの身柄を拘束し、その場は収まることになった。




