第25話 十年越しの答え合わせ
ドアをノックもせずに、必死の形相で部屋に飛び込んできたアガサに、執務室で仕事をしていたジェフリーは、何事があったのかと息を呑み立ち上がった。
「ジェフリー! 今すぐ話したいことがあるの! 時間ある?」
「どうしたの? 何があったの? まさか、タマラが……?」
「違う、そうじゃなくて……」
アガサは胸に手を当て急いで息を整え、ジェフリーを見つめた。十年も無駄にしてしまった。再会してからも、あの話題に直接触れるのが怖くて、ずっと後回しにしてきた。でももう逃げない。そんな決意を込めた視線に、ジェフリーもただならぬ状況だと察してくれたようだ。黙ってアガサを机の前にあるソファに誘導して、自分も対面に座る。
「その……隣に座ってもいい? まだ怖くて……」
アガサが震える声でそう言うと、ジェフリーは自分から動いてアガサの隣に移動した。
「ありがとう……急だけど、あの時の話をしたいの……十年前のこと」
それを聞いて、ジェフリーの顔がこわばる。無理もない。ずっとアガサが逃げ続けてきたのだから。まさか、彼女の方から持ち出してくるとは思わなかったのだろう。でも、辛抱強く待ってくれたジェフリーのために、今こそ勇気を振り絞る時だと、アガサは腹を決めた。
「どうして急に……?」
「ミネルヴァが教えてくれたの。十年前、ここであった事故のこと」
ジェフリーの顔色が変わる。アガサも、自分で言ったことが恐ろしくなって、後からガタガタ震えてしまう。どうしよう、冷静に伝えられるだろうか。不安に怯える彼女の手を、ジェフリーはそっと握ってくれた。
「本当にいいの? 無理してない?」
「してない……ただ、十年前のことを思い出すのは今でも怖いの……いまだに記憶が生々しくて、どうにかなっちゃいそうで……でもいつまでも逃げられないから……」
自分の手を包むジェフリーの握力が強くなる。骨ばってがっちりした手。男の人ってこんな手をしてるんだっけと頭の片隅でぼんやり思う。
「まだ無理しなくても……」
「大丈夫。むしろ、今まで散々甘えてしまった。もう逃げたくない」
アガサは、ここで一息入れてから再び口を開いた。
「あなたは、別の女性と婚約するために私を捨てたんだとずっと信じてた。職場で事故があったというのはただの口実だと」
「当時は極秘事項だったから何も言えなかった。実験の内容に問題があって、明るみになるとまずかったから――」
「今は言っても大丈夫なの?」
「まあね。十分時間が経ったから話せる。実験を指示した人物を守るための措置だったんだ。その人がどこで何をしているのか、僕はもう詮索する気もないけどね」
「つまり、上の人があなたに無断で研究員に指示したってこと? そんなこと許されるの?」
「僕も当時は若造で実権がなかったし。でも、責任は僕が取った」
「そんな……!」
絶句するアガサにジェフリーは曖昧に微笑んでみせる。十年前、大変な思いをしたのはアガサだけではなかったのだ。こんな風に気軽に語れるようになるまで、彼はどれだけ葛藤したのだろうと、アガサは胸が潰れる思いだった。
「私ったら辛い思いをしてるのは自分ばかりと思ってた。そんなことになってたなんて……」
「いいのいいの。もう十年前の話だから。過ぎたことだよ」
何のことはないと軽くいなすジェフリーを、アガサは穴の開くほど見つめた。言葉にならない思いが込み上げ唇を噛むと、ジェフリーは今度は優しい笑みを向けた。
「そんな顔しないで。アガサが理解してくれればそれで十分だ」
「でも……!」
「今度はアガサの話を聞かせてほしい。そっちの方が大事だから」
今も昔も何もできない自分がもどかしい。アガサは散々ためらったのち、口を開いた。
「分かった……でも、今でも思い出すだけで動悸がして息が上がるの。だから、怖くなったら……その……励まして……」
アガサが顔を赤くしながら言うと、ジェフリーは黙って頷いてくれた。
「ずっと一人であの部屋であなたが帰ってくるのを待っていた。そしたら、お姉様がやって来て――」
アガサは、声を震わせながらも、ジェフリーと会えなくなってからの出来事を説明した。エルザに見つかって追い出されたこと。自分の家に戻って来てから体調が最悪になったこと。アンディが訪ねてきたこと。見合いの新聞記事を見て、慌ててジェフリーの家に行ったら――ここが一番きついところだ。アガサは、全身が震えだし、呼吸が浅くなるところを、何とか深呼吸して抑えた。すると、ジェフリーがアガサを自分の方へ引き寄せ、肩をギュッと抱いた。
「……迷惑じゃない?」
「うん……」
いちいち確認を取ってから、体に触れてくるジェフリーがもどかしくも愛おしい。こういう時どう答えればいいのだろう。ありがとうと言うのもまた違う気がする。言葉にはしにくいが何とか肯定の気持ちを伝えたくて、アガサは頭を彼の体に預けた。彼がそうしてくれたお陰で、何とか先を続けることができた。
「ひどいめまいと耳鳴りがしてその場に倒れたの。そしたら過去のトラウマが走馬灯のように……過去だけじゃなく嫌な未来予想まで……死ぬほど辛かった……」
ジェフリーがはっと息を呑むのが聞こえる。彼の顔を見ると、真っ白な顔で小刻みに震えていた。まるで何かに怯えているような。彼がこんな表情をするのを今まで見たことがない。そして、アガサをさらに自分の方へ引き寄せ、胸板に強く押し付けた。
彼の胸の中にすっぽり収まり心臓の音まで聞こえる。アガサは、大きな力に守られているような気持ちになった。
「辛いことを思い出させてごめん。でもいくつか質問させて。その時、他に気づいたことはなかった? 何でもいい。物音とか、匂いとか?」
彼の声は真剣そのものだ。アガサも一生懸命彼に応えようと努める。
「……そう言えば、最初に風が吹いた気がした。それから髪の毛が焦げるような、不快な臭いがしたの」
アガサを包む力がより強くなる。もう少しで痛いと悲鳴を上げるところだった。彼の目はくわっと見開かれ、血の気を失った顔面が次第に赤く変わっていく。何も言わないが、彼の中で感情が吹き荒れているのがアガサには分かった。
「あの……ジェフリー……?」
「その場にいられなくてすまない……怖かっただろう?」
ジェフリーは我に返ると、アガサを力強く抱きしめ何度も頭を撫でた。嫌じゃない。むしろもっと彼に触れていたい。そんなことを考えたら、アガサはいつの間にかグスグスと泣いていた。そして、甘えるように、ジェフリーの体に腕を回し体を密着させた。
「僕がいない間にそんなことになっていたなんて……事故が起きたのは、所長である僕の気が緩んでいたせいだと思った。アガサと出会えたことに浮かれて油断したせいだと思ったから、連絡を取れずにいた。無理をしてでも家に帰ればよかった。そうすれば、今ごろこんなことには……」
ジェフリーの声がくぐもる。彼も泣いているのだ。彼でも泣くことがあるのかとアガサは内心驚いた。自分のことは軽く流せるのに、アガサが辛い目に遭っているのは許せない。そうだ、ジェフリーはこういう人だった。
「もういいの。こうして分かり合えることができたんだから。よかった……やっと打ち明けることができた……」
アガサは気持ちが弛緩して涙が止まらない状態だったが、ジェフリーは体の緊張を解かず、地面の一点を見つめたままだった。
「まだ解決してない問題がある。アガサを恐怖のどん底に突き落としたものの正体を突き止めなくちゃいけない」
彼の言葉にアガサは息を呑んだ。確かにその通りだが……でも、当時誰かから恨みを買うような覚えはない。
「でもあなたではないんでしょう……?」
「もちろん。でも、ということは、アガサを陥れた別の人物がいるってことだ」
自分を陥れた人物……だが、十年前にそこまでの悪意が存在していたなんて考えられないし、想像もしたくない。強いて言えばエルザくらいだが……。
「一体誰がそんなことを?」
「それだけじゃない。アガサが受けたそれは闇魔法じゃない。闇魔法は僕しか使えないんだから」
「じゃ誰が……?」
怒りと悲しみに沈むジェフリーの緑色の目を見つめながらアガサは絶句する。死ぬより怖い思いをしたあの体験は一体何だったのだろうか? ジェフリーは、険しい顔のまま首を横に振り、アガサに問いかけた。
「大変だろうが、もうちょっと頑張ってほしい。時系列を整理したいんだ。僕と最後に会った日、アガサが自分の家に帰った日、そして、もう一回僕の家に行った日はいつ?」
なぜそんなことを聞くのだろう。不思議に思いながらも、アガサは昔の記憶を手繰り寄せて、正確な日付を思い出した。大まかな時系列を整理すると、ジェフリーの顔は一層こわばった。目は血走り、唇を強く噛み締め、拳で額をガンガン打ち付ける様はどう見ても異様だ。
「ねえ、どうしたの? 何か分かったの?」
「アガサも知ってるだろう? 強い幻覚作用をもたらす魔法薬の存在を?」
「ええもちろん……専門分野だもの……でも、ここまでの作用のものはないはずよ」
「さっき、何食べても吐いたと言ってたよね?」
突然話が代わり、アガサは目を丸くする。
「ええ、でもあの時はとても落ち込んでたから……」
「生理はどうだった? 止まってなかった?」
唐突とも言える指摘にアガサはえっと声を上げた。最初は訳が分からなかったが、だんだん頭の中で点と点がつながり一つの像ができあがると、わなわなと震え出した。
「今まで考えたこともなかった……どうして気が付かなかったんだろう……」
そう呟きジェフリーを見つめる。目が合うと、彼も静かに頷いた。
「やっぱり……その時にはもう、お腹の中にタマラがいたんだよ」
「あれはつわりだったのね……妊娠に関する知識なんてなかったから、当時は訳が分からなかった。食欲がなかったのは、精神的ショックを受けたせいだと思ったし、妊娠が分かってからは、過去を振り返るだけの余裕もなかった」
おろおろと取り乱すアガサを、ジェフリーは懸命になだめてくれた。だが、簡単に立ち直れるものではない。当時の自分がどれだけ無頓着で無防備だったか、今になって痛いほど突きつけられた。
「でも、これで分かっただろう? 妊婦が摂取すると症状が強く出る薬があるよね。アガサはその時妊娠してたから、闇魔法と勘違いするほどの体験をしたんだ」
「なんてこと……妊婦は薬が強く効くことがあるって、私いつもお客さんに言ってたのに……じゃ、あの時の魔法薬は……」
「おそらく、サカサリンドウとナナカマドモドキとグソクトカゲの腑の生成物から出る毒ガスを吸引した時に出る症状だ」
ジェフリーの説明にアガサは目を丸くする。自分も魔法薬師だから、その知識は持っている。この三つを魔力を使って合成すると、神経系の魔法薬が作れるのだが、成功率が低く、失敗した生成物には毒が含まれる。このため、失敗したらゴミとして捨てず、国に収める決まりがあるのだ。
「本来、国が回収するものじゃない。どうやって?」
「自分でわざわざ作ったか、あるいは……」
難しい顔をしたままのジェフリーを、アガサは心配そうに見つめた。その三つの材料はどれも希少なもので、アガサもソルベリージュにいた頃なら揃えられなかっただろう。そこまでのものなら、簡単に犯人は絞れそうだが、十年という月日の経過が解明を難しくさせている。しばらくしてから、ジェフリーは自分が見つめられていることに気づいて表情を和らげた。
「大丈夫。もう、前のようにはならない。僕もアガサも成長したのだから」
「あなたはともかく私は……知らないうちにタマラを危険に晒していたかと思うと、悔やんでも悔やみきれない」
アガサはガックリとうなだれて被りを振る。すると、ジェフリーはもう一度、彼女をひしっと抱きしめた。
「アガサは何も悪くない。僕こそ……本当にすまない。今まで辛い思いをさせて……憎んでも憎みきれないよね……ごめん……ごめん……」
ジェフリーは、とうとう感情が決壊したかのように泣き出した。歯を食いしばって嗚咽を我慢しているが、うわごとのように何度も謝罪の言葉を口にするのを見て、アガサの心の中にあった氷は完全に溶けた。
「もういいの。二人とも若かった。でも、これからはお互い助け合って暮らしていける。そう思わない?」
今度はアガサが励ます番だ。涙でぐずぐずになった彼は、迷子の子犬のような目でアガサを見つめた。
「許してくれるの……?」
そう言われ、一瞬止まる。ふと十年間の思いがよみがえったが、それは彼女の中でソーダーの泡のように消えた。
「もちろんよ。私だってあなたが辛い立場にあったなんて全然知らなかった。お互い様よ」
アガサの頬も濡れている。心の中に長年あった氷の柱が溶け切って涙として流れているのだと思った。それを見たジェフリーは、吸い寄せられるようにアガサに顔を近づけた。
触れると思った瞬間、なぜか彼はゆっくりと体を引き、代わりに彼女の手をそっと握り直した。
「まだ終わっていない。黒幕を捕まえるまでは……」
声は静かだが、握る手に力がこもっている。アガサは囁くような声で尋ねた。
「誰なのか見当はついてるの?」
ジェフリーは何も答えなかった。しかし、涙で濡れたまつ毛の奥にある緑の目には、今まで見たことのない炎が揺れていた。十年前の彼とは違う。年月と試練が彼を変えたのだ。アガサは唇を引き結び、静かに頷いた。




