第43話 欠けて行く月
ジャンヌ様は長い髪を肩の後ろに払い、言う。
「そうして私が城に戻って来てみれば、例の婚約者は逃げた後だった」
「逃げていません!」
私は即座に言い返し、……あっ、と、目を伏せる。考えなしに言ってしまった。お嬢様は私の反応に驚き、目を見張る。でもすぐに微笑んで、穏やかにおっしゃった。
「そうね。戻ってきたら、フェリックスの言い分も聞きましょう。今後のことも話し合わないと」
「……」
今日、城に戻って来てから気づいたことがある。リュシアン王子ではなく、フェリックス様がお嬢様の婚約者として受け入れられつつある、ということだ。彼は使用人にも親切だし、この人が私たちの主人になるならそれもいいかな、などと思う。
これがリュシアン王子なら、こんな横柄な人がお嬢様と結婚して私たちの上に立つなんて。そういう白い目で、私たちは王子のことを見ている。だから、フェリックス様ならばと安心が広がっている気がするのだ。
でも、お嬢様を城の後継者として見たとき、フェリックス様の人気は不都合。彼の存在が前面に出ることをジャンヌ様は望まない。そもそも、お嬢様が愛している人ではないし。
ふうっと明かりが揺らめき、周囲が暗くなった。室内を照らす明かりのうちの一つが暗くなっている。台の上にある燭台の、ろうそくが燃え尽きようとしている。
話が長くなったせいだろうか。こうなるまで気づかなかった。
「明かりを……持ってまいります」
私は立ち上がって部屋の向こうへ歩く。壁近くの棚に、替えがあるはずだ。
室内は完全な暗闇ではなかった。窓からは弱々しい月明かりが見え、それが足元を照らしてくれる。
私は替えのろうそくに火を灯し、ベッドの方に戻ろうとした。すると窓枠の所に人影がある。ジャンヌ様だ。
お嬢様がいつの間にかベッドを出て、腰の高さの窓枠に座っている。窓枠に肘をつき、広がる夜空を見ながらお嬢様は言う。
「知らなかったわ。細い月でも、こんなに明るいなんて」
青白い月明かりに照らされたお嬢様の横顔、金色の髪が腰まで広がっている。その姿があまりにも美しく、私ははっと息を呑む。
「ジャンヌ様……」
私がつぶやくと、お嬢様が少し微笑んだような気がした。
私は手燭を台の上に置き、上着を持ってお嬢様のもとに駆け寄る。お嬢様は上着に袖を通し、私はその紐を結び合わせる。
「お前が着せてくれると……とても具合がいいわね」
「はあ……それは、恐れ入ります」
そんな風に褒めてもらったのは初めてだ。どういう心境の変化だろう。
お嬢様は上着の肩と胸元を確認するように手をやり、腕を少し動かしながら言う。
「窮屈でないし、動いても乱れない。よく言われたわ、その日、私の服を誰が整えたのかが分かる、と……」
お嬢様が楽しそうに話すのはリュシアン王子のことに決まっている。でも。
「そんなことが分かるのですか? 一体どなたでございましょう?」
「……」
私がお聞きするとお嬢様は口を閉ざす。その名前を言おうとしない。
代わりに、お嬢様は窓の外に視線を移す。そして静かに言った。
「フェリックスとの結婚は、一つの、けじめなのね」
お嬢様は今回のもめ事に、自分の方法でけりをつけようとしている。窓から外を見つめる、その横顔がどこまでも美しい。
「でも、これで終わりじゃない」
まるで自分の決意を表すような、強い意志を感じさせる宣言。
「私はくだらない男と関係を持ったのではないし、あの人も見る目のない女と結婚しようとしていたのではない。生涯をかけてそれを証明しつづけてみせる」
お嬢様の目は遠くを見ている。はるかはるか遠く、私に見えない所を。
「彼は私に鷹の目を見せてくれた。はるか上から俯瞰する目を……一度頂点を知ったからには、下に降りていくことはできない」
……この時私は、ちかちかと目の前を眩い光が通り過ぎた気がしたんだ。ああ、これなんだ、と思う。お嬢様は気高く、美しい。本当にお美しい。この方を主君に仰ぐのは私たちの誇りだ。
それで、それまでそんなことは一度もしようと思ったことないのに、私は思わずお嬢様の足元に跪く。この方がどんな決断をされても、私はついていく。自然とそういう気になる。すると、お嬢様は私の肩に手を置いて下さる。
「顔を上げていなさい。こんな美しい夜に、それでは勿体ないわ」
「はい……」
やがて、私の肩からその手の重みが消える。顔を上げると、ジャンヌ様は窓の外を見ている。片手は膝の上に、もう片手は指で窓枠をとんとんと叩く。口元には自然な微笑みが浮かび、眼差しは優しく、何か大切な物を愛おしむよう。
この目に、このお顔……お嬢様ではないけれど、今までこれと同じ表情をしていた人をずっと見ていた。だから、お嬢様が誰のことを、何を想っているのか、私には分かる。
「きっと、同じ夜をお過ごしです」
私が申し上げると、お嬢様は不思議そうな顔をして私を見た。私はお嬢様の顔を見つめ返し、続きを言う。
「今日一日の無事を案じ、夜はどうしているか、よく眠れているだろうかと気遣われています」
お嬢様は一瞬だけ考える。そして誰のことを指すのか思い当たり、不機嫌そうに横を向く。窓枠に両手をつくと、空に向かってつぶやくように言う。
「……そうかもしれない。でも、すぐに慣れるわ」
「慣れる?」
「考えなくても、済むようになる」
「……」
水を向けるとかえって意固地になって反発される。お嬢様の意志が強すぎて、まるでつけ入る隙がない。でも、それで本当にいいんだろうか?
分かったのは、結婚して幸せになるだけが愛の形じゃないということ。別れてなお、お嬢様はリュシアン王子への愛を貫こうとしている。一人で進むにはとても辛くて苦しい道を選んでしまった。
この後、フェリックス様は城に帰って来る。必ず。
そして「真実の誓い」の魔法がなんであったのか、事実が明らかになる。そうなるはずだ。
そうしたら、お嬢様は誓約にしばられず、本当に愛する人と結婚できる。
だけど、そうと分かってもお嬢様は決心を変えないかもしれない。そんな気がしてしまった。
一度離した手を再び、取り合ってはだめなのだろうか? お嬢様には愛する人と幸せになってほしい。私がそう願うのは的外れ?
さらに悪い予感は、リュシアン王子に対しても。王子はお嬢様の決定に異を唱えないと思うのだ。愛する人を、その人が選んだ道に黙って送り出す。二人揃って心の声を押し殺し、不自由さに耐える、それが崇高な生き方?
飼い猫が戻って来た。いつの間にかお嬢様の足元にすり寄っている。お嬢様も猫に気づき、言う。
「おいで」
お嬢様は窓枠から降りると猫を抱き上げた。
「疲れたから休むわ」
お嬢様はくるりと背を向け、猫を抱えたままベッドの方へ。私は立ち上がってその後を追いかけ、お嬢様は背中越しにおっしゃる。
「幕を下ろしてちょうだい。番を頼むわね」
私はお嬢様の後ろ姿に向かって深々と頭を下げる。言われた通り、ベッド周りの幕を下ろす。
幕の向こう側が見えなくなる。こんなに頼りない気持ちで幕を下ろすのは初めてかもしれない。
幕から離れて歩き出すと、羽音に気づいた。それまで止まり木で寝ていたはずの鳩が大きく羽ばたきをする。止まり木の上から何かを見ている。
私は再び燭台を手にとり、その方角を確認しに行く。部屋の出入り口付近、女中が来ている。
「どうしたの?」
私が手持ちの燭台を掲げると、女中はまぶしそうに目元を手で覆う。
「あの、探し物をしていて……」
この女中、誰だっけ。名前が出てこない。頭巾の被り方がまだどこかぎこちないから、最近新しく入ったばかりかもしれない。
「探し物? 何を?」
私は手燭を動かし、ぐるりと周囲を照らす。
「出直します……」
「待って……」
私の制止を振り払い、女中は廊下へ走り去った。何だかものすごく怪しい。
と、目の前に白い犬が飛び込んで来た。私は足を止める。今度は何? ……あれ、犬じゃなかった。ぴんと立った耳から鼻までが長く、ふさふさした立派な尻尾はキツネ。番犬か猟犬なら分かるけど、お城にキツネ?
「夜明けを待つ」
うわっ。キツネがしゃべった。持っている燭台を落としそうなくらいびっくりする。けど、もしかして。
「シャーズ?」
ささやくように尋ねると、キツネはうなずくように頭を動かす。そして私について来いと、自分からお嬢様の部屋に入る。
シャーズはフェリックス様の従者、その正体は彼の使い魔。普段は人の姿をとっているので、彼の本性であるキツネの姿は初めて見た。フェリックス様の従者が城内をうろついているのでは目立つから、キツネの姿でいるのかもしれない。
「危険はない。私は警戒を続ける」
そう言うと白キツネは私の目の前を横切り、窓の方へ向かう。ひらりと窓枠に飛び乗る。一度私を振り返り、そこから外へ出て行こうとする。私は呼び止めて聞く。
「いつからいたの?」
「ずっといた」
昼間にしたのと同じ会話だ。
「……ありがとう」
自然とその言葉を口にする。すると白キツネはあっという間に窓の向こうへ姿を消してしまう。シャーズがいてくれたことが心強い。
私は振り返り、部屋の中の大事な物を確認する。薄暗い部屋の中では衣装箱が存在を主張している。この箱の番をするせいで、私は今日も自分のベッドで寝なかった。昨日はどうしてだったかというと、……? あ!
ついさっきの女中、あれはリゼットだ。昨日私のベッドで寝ていた、新入り女中。尼僧院で出会ったリゼットと同じ名前に違う顔。城に入り込んだ不審な女中。
何をしていた? リゼットの「探し物」って、まさかお嬢様をつけ狙っていたわけじゃないでしょうね? シャーズの警戒の相手ってリゼット? その可能性に気づいて私は身震いする。
空の色が変わり始めている。間もなく夜が明け、城門が開く。人も増える。夜の番をした者は、昼の女中と交代する時間。そうしたら私は直接会いに行こう、お城の女中のリゼットに。




