第44話 二人の帰還
「おはようございます、ジャンヌ様」
「おはようございます……」
私は老女中のアンナとともにお嬢様にご挨拶申し上げる。お嬢様が目を覚ましたのはいつもよりだいぶ遅く、正午前になっていた。
ジャンヌお嬢様のベッドで寝ていた黒猫のレグリスが大きく伸びをする。私はお嬢様付きの女中の役目を、アンナと交代した。
私は後を任せ、お嬢様の部屋を辞する。考えごとをしながら城の廊下を歩く。
さっきリゼットという女中のことをアンナに尋ねてみた時、アンナはむっとしたように答えた。
「ああ、あの失礼な新入り女中だね」
「失礼?」
「新参者のくせに、自分の名前を名乗りもしないなんてさ」
アンナは最古参の女中の一人。新入り女中が、自分に気を遣って当然と思っているようだ。
「今日は皆と農園作業に出ていったよ。あれじゃあ、人のお世話をするには向かないね。せいぜい、外仕事がいいところさ……」
アンナはそう言って、リゼットのことを決めてかかる。私が尼僧院で出会った同じ名の人とは、明らかに別人だと思った。
そう思っている間にも足は自然と城門へ向かう。リゼットのいる農園が城門を出た先にあるから、だけじゃない。心の底では別の事を想っている。待ち人に早く会いたい。城門に行けば、帰ってきた人に早く会えるんじゃないかと。そう期待してしまう。
期待し過ぎてはいけないのは分かってる。でも、もし夜明けとともにリールの領主館を発っていれば、そろそろこの城にたどり着く頃だ。できれば、あの人にはリュシアン王子を連れて帰ってきてほしい。そうして何とかお嬢様の決心を変えさせたい。
昨夜、お嬢様はご自分の決定にとても納得した様子だったけど、私の方がまだあきらめきれていないんだ。お嬢様に、リュシアン王子を愛する気持ちがあるからこそ。
空が明るい。私は足を止め、天井近くの窓を見上げる。
と、私の足元を、黒猫のレグリスがすごい速さで駆け抜けて行った。猫が走って行ったのは、城門の方向。
もしかして。もしかすると。
昨日私が帰って来た時、レグリスは城門まで迎えに来てくれていた。今日もまた、誰かの出迎えではないだろうか。
……そうだったらいいな、と思う。フェリックス様かリュシアン王子か。どちらかお一人だけでも帰って来てくれないだろうか。
私が足を速めたとたん、後ろから呼び止める声。
「レア!」
振り返ってみると、後ろからアンナが走ってくる。もう若くないアンナはぜいぜいと息を切らせながら言う。
「大変、大変なんだよ、鏡がないんだよ!」
「鏡?」
「旅の荷物をもう一度確認してくるから、あんたはお嬢様をお願い。まかせたよ!」
アンナはあっという間に私を追い越し、走って行く。
はて、鏡がないとは、一体?
◇◇◇
「失礼いたします」
何事もなかったかのように私はジャンヌ様のお部屋に戻る。お嬢様はちょうど机の前に座ろうとしていた所だ。私を見て一瞬だけ驚いた顔をなさる。
私は机の上に、化粧道具が揃っているのを見た。が、鏡だけがない。いつもお使いの大事な銀の鏡がない。
鏡って、銀の鏡のことだったのか。私の顔からさっと血の気が引く。これは誰でなくとも一大事。
拍動が速くなるのを感じながら、できるだけ冷静にと心がけてお伺いする。
「お嬢様、いつもの鏡が見当たらないようなのですが……」
「鏡? ああ、あれね!」
椅子に座ろうとしていたお嬢様が、ぽん、と手を打った。
「急いで帰って来たから、忘れてきたみたい」
身構えた割には、平静な答え。お嬢様の視線は少し上を見ながら、思い出したように言う。
鏡はリールの領主館に持って行った、そしてそのまま置いてきてしまった。そういえば、荷物に入れたのを確かめなかった。
……激情に任せて鏡面を叩き割ったりしたのではなかったようだ。よかった、と、まずはほっとする。
大事な物を忘れて来るのは、支度をした女中の不手際でもあるのだけど、お嬢様はそれを全く責めない。鏡のことはご自分の責任のように思われている。それはそれでよいとして。
鏡を置いてご自身だけ帰って来た。リュシアン王子が残された鏡を見つけたならば、何と思うだろうか? 事態を変に悪化させるのではと心配になる。
私はお尋ねする。
「別の鏡をお使いになりますか?」
「……そうね、では金の鏡を。まだあるかしら」
一瞬考えた後でお嬢様は鍵束を持ち、椅子から立ち上がった。鍵束のうちの一本を、部屋置きの収納箱の錠に差す。回そうとして回らない。
「間違えたわ……この箱は、この鍵だった」
お嬢様が別の鍵を試すと、果たして今度はガチリと音がして錠が開いた。
私は床に膝をついて収納箱の中を覗き込む。が、目当てのものは見当たらなかった。
そこにあるはずだったのは、金色の枠飾りのついた鏡。お嬢様がお好みの金色の装飾。リュシアン王子から銀の鏡をもらう前まで、お嬢様はずっとその鏡を使っていた。銀の鏡ほどではないかもしれないけれど、高価な物に違いない。
「鏡はこちらではないようでございます」
「おかしいわね。誰かが気を利かせて磨きに出したのかしら?」
「……別の鏡を……」
探してまいりましょうか、と言いかけたところで、誰かが私の脇をすり抜け通った。ん? 女中頭だ。
とても慌てた様子で。どうしたのだろう。
女中頭は私には目もくれず、深刻な顔をしてお嬢様に話しかけた。
「ジャンヌお嬢様、鍵はすべて揃ってお持ちですか」
「鍵?」
貴重品の入った収納箱には鍵がかかっている。鍵はご領主の一家と、一部は家令のモリスが管理している。
お嬢様もご自身の鍵束について、あらためてその数と種類を確認された。
「私の鍵は全部あるわ。何かあったの?」
「今朝、これが馬小屋で見つかったのです。お嬢様の鍵ではございませんか? ご確認を」
女中頭が差し出した鍵をお嬢様は受け取る。腑に落ちない顔で形を確認し、収納箱の錠に鍵をさす。その鍵で確かに錠が回る。女中頭が持ってきた鍵は、金の鏡が入っていた収納箱の鍵だったのだ。
「私のと同じ鍵だわね。古い方の鍵」
お嬢様が呆然とつぶやく。
女中頭は切羽詰まったように言う。
「それでお嬢様、その収納箱におかしな点はございませんでしたでしょうか?」
「何も。私がさっき鍵を開けたばかり。間違いないわ」
お嬢様は落ち着き払って答え、女中頭はさらに詰め寄る。
「なくなった物はございませんか?」
「さあ……あるかもしれないけど、別に大した物は入っていないわ」
もし金の鏡がなくなっていると知れたならば、大騒ぎだ。
それにしても、一体誰が、どうして女中頭なんかに知らせたのだろう? 鍵を見つけたら、普通に考えれば家令のモリスに届けるはず。女中頭じゃ、話がややこしくなるだけ。相談相手を間違えている。
女中頭は持って来た鍵について説明する。この鍵は今朝、馬小屋の敷き藁に埋もれているのが見つかった。その馬というのがファラダで……。
そうか。さっきから女中頭が私の方をちらちらと見ている理由が分かった。私を疑っているのだ。
ファラダは気難しくて、誰もが近寄れるという訳ではないから。そのファラダの近くで鍵が見つかったので、私が疑われたんだ。
女中頭は私を尋問にかかる。日中は馬屋係がいて、特に不審なことはなかったと言っている。人のいない夜の間に犯人が鍵を隠したに決まっている。そんなことが出来るのはお前だけだ……。無茶苦茶な発想。でも、女中頭は私を犯人にしたがっている。
「お前、昨日の晩はどこにいた」
「昨日? 私は……」
「レアならずっと私の部屋にいたわよ、私が証人よ」
お嬢様が答えた。期待した答えが得られなかったので、女中頭はますます私を睨みつけて詰問する。
「お前、その前の晩はどこにいた?」
「その前の晩?」
はて。その前の晩とは何のことだろう。本気で私は頭をひねる。女中頭は勝ち誇ったように言う。
「女中たちが言っていたのだ、お前は部屋に戻って休まなかったと……」
あっ……!
私は叫びそうになったのを必死にこらえる。そうだった……しまった。まさかこんなことになるとは。
一昨日の夜、私は女中部屋に戻っていた。でも、私が「仕事の手を抜いて戻った」と思われないよう、女中たちが口裏を合わせてくれたのだ。それで私はその晩女中部屋にはいなかった、ということになっている。
鍵を隠したのが私でなくても、嘘をついているのは不利。女中仲間たちの信用にも関わるし、こんなことをばらすわけにはいかない、絶対に。
しかし、鍵が見つかったのが今朝なら、私の一昨日よりも先に確認すべきことがあるはず。まずは順を追って何が起きているのか知りたい。
私は女中頭に質問を返す。
「私は昨日も一昨日も、ファラダで出かけました。出かけた時も、帰って来た時も、おかしなことはありませんでした。今朝になって鍵が見つかったのには、何か変わったことでもあったのですか?」
動物嫌いの女中頭は、ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「馬が暴れたのさ! それで分かったんだ」
「暴れた?! まさか……」
ファラダは人に慣れないけれど、理由もなく暴れる馬じゃない。何かされたのでは……?
私が女中頭につかみかかりそうになっていると、突然男の声が割って入った。
「部屋にいなかったのなら、男と一緒だったに決まっているじゃないか。他にすることがあるか」
この場の緊迫感を全く無視する、ふざけた調子。声の主を確認し、私は驚きの声を飲み込む。えっ。あなたは……。
「リュシアン王子!」
女中頭が仰天の声をあげ、それから平身低頭した。
「お戻りでございましたか……あの、そちらの方もご一緒に……」
女中頭が顔を伏せたまま遠慮がちに視線を向ける。なんとリュシアン王子から数歩離れて、フェリックス様も一緒のお戻りだった。
「同じ馬車で戻った」
リュシアン王子が言って振り返り、フェリックス様が頷く。お二人はまるで同志のように視線を交わす。
これにはお嬢様も私も驚き、声も出ず。ただ目をみはるばかり。




