第41話 義務と献身(3)
私はお嬢様に尋ねて言う。
「その時にもう、リュシアン王子との結婚を決められたのですか?」
「いいえ。全く」
お嬢様は笑って首を振る。
「リュシアンのことは噂通り、ちょっと頭のおかしい人だと思った。それだけね。だから何も考えず、鏡を受け取った」
「鏡? ……あ、わかりました、ジャンヌ様がいつもお使いの、あの銀の鏡ですね?」
「そう。鏡はただの滞在の返礼品で、それが鏡であることに、何の疑いも持たなかった」
リュシアン王子が城を去る時のことだった。王子はジャンヌ様に銀の縁の鏡を贈った。
鏡は円形で枠が銀色。卓上に置き、化粧をする時に使う。縁の上部には草花と王冠の模様の彫刻があって、王冠の部分に青色の宝石が埋め込まれている。長年使われてきたような、でも手入れの行き届いた美しさと品の良さがある。
その後、お嬢様は毎日この鏡をお使いになっている。もし感じの悪い相手からもらったなら、そんなことはしなかったと思うのだけど。
私は控えめにお聞きする。
「ではどうやって……お二人の関係が進むことになったのでしょうか」
「リュシアンの方から、最初の使者がやって来た」
城を去って間もなく、リュシアン王子はヴァロン城に使者を送ったのだという。使者は恭しく口上を言った。
「親愛なるヴァロン侯ご夫妻ならびにご息女の皆さまに、我が主人リュシアン王子よりの言付けを述べ伝えます……」
用件とは王子からの求婚だった。ご一家は天地がひっくり返るくらいに驚き、その中でお嬢様には、指環と腰飾りの帯が贈られた。
「求婚には、鏡、指環、腰帯の三品目を贈るのが習わし。先にもらった鏡には、そんな意味があったのかと、ようやく気付いた」と、お嬢様。
放蕩者と名高い王子が正式な手続きを踏んできたのも驚きだ。しかし、使者に対してヴァロン侯は言った。
「これは何かの間違いでしょう。王子のお相手が、娘のはずがありません」
奥様も旦那様に同調した。いったんお嬢様が手にした贈り物の品を取り上げ、使者に突き返して言う。
「理由もなく頂戴するわけにはいかない、と。……見合うものをお返しできるわけもなく、かえって心苦しいばかりですと、ご主君にはお伝えくださいませ」
あの夜のことを、ご両親も思い当たったはず。「何かの間違い」や「理由のない贈り物」ではないと分かっていて、リュシアン王子を拒絶したのだ。
お嬢様は振り返る。
「正式な求婚があったことに驚いた。それが迷わず却下されてもっと驚いた。私は何もできなかった」
「でも、まだ続きがありますね、ジャンヌ様?」
「そう、二度目の使者がやって来た」
ヴァロン家がリュシアン王子からの二度目の使者を迎えていた時の出来事だ。使者は王子からの求婚を伝える。贈り物を渡す。ヴァロン侯が退ける。一度目と同じことの繰り返し。
ただし、二度目の使者は、うっかり手をすべらせた。ヴァロン家から突き返された指環を受け取った時、誤って床に落としてしまったのだ。
「どこだ、見つからない……」
使者は床に這いつくばり、指環を探してお嬢様の足元までやって来る。その場所で困ったようにお嬢様を見上げる。お嬢様は使者と目が合ってはっとし、自分が何をすべきなのか気づく。
「ここにあるわ、これを……」
お嬢様は床から指環を拾う振りをして自分の指環を外し、使者に渡す。使者は心得たようににっこりと微笑み、言う。
「ご親切、ありがとうございます。これで我が主人に叱責されずに済みます」
こうして使者はお嬢様の指環を持ち帰り、リュシアン王子のもとへ届けた。
王子からの求婚は受け入れられなかったけれど、お嬢様はそれとは別の意志を示した。
お嬢様は楽しそうに笑う。
「隠れてこっそり何かを伝えるなんて……今まで考えもしなかった。でも、私にもできた。意外と楽しかった」
「この時に、お心を決められたのですか?」
「いいえ、まだね。リュシアンがこの事態をどうするつもりなのか、お手並み拝見くらいに思っていた」
決定的な転機は狩猟祭の時にあったのだと言う。例年秋に行われる、国王主催の狩猟祭でだ。
狩猟祭には、都から、地方から、有力者たちがやって来て一堂に集まる。平原にはそれぞれの家門が天幕を張る。そのうちの一つ、ヴァロン侯の天幕を騎馬の一団が訪れる。それがリュシアン王子だった。
リュシアン王子は、自分こそ軽装だったが、剣を帯びた従者を何人も引き連れ、自分の身分を示す旗も掲げさせていた。遠目にも目立つし、仰々しいことこの上ない。
騎馬の一団はヴァロン侯の天幕で一斉に馬を降り、中に入った。
王子たちの一団はあっという間に天幕を制圧し、ヴァロン侯ご夫妻とジャンヌ様を人の輪で取り囲む。ヴァロン侯たちもその家臣も、何事かと立ちすくむ。
そこへリュシアン王子が近づいて来る。王子はお嬢様の手を取る。それを合図に、輪になっていた人々が一斉に膝を折って頭を下げる。ヴァロン侯にも恭順をせまるかのように。
リュシアン王子はお嬢様の手を取ったまま、ヴァロン侯に告げる。
「順番が前後してお嬢様には悪いことをした。こちらとしては出来る限りの誠意をもって、急ぎ形式を整えたかったのだが……」
順番の前後とは結婚前に夜を共にしてしまったことだ。リュシアン王子は求婚の使者が拒絶されたことに不快感を示し、一方的にヴァロン侯夫妻を責めた。まるで自分には非がないかのような態度はともかく、リュシアン王子は圧倒的に、その場の支配者になった。その時の様子をお嬢様はこう言う。
「もし生まれながらの王者というものがあれば、それは彼のことね……」
ヴァロン侯は顔色を失って王子の前に跪く。奥様は事態を受け止められず卒倒する。それを支えて椅子に座らせたのはジャンヌ様だった。
母親を助けるため、お嬢様はいったんリュシアン王子の手を放したのだけど。
「ジャンヌ」
リュシアン王子が静かな声で呼びかける。それ以上は何も言わず、だまって手を差し出す。それを見てお嬢様は王子のもとに駆け戻り、迷わず差し出された手を取る。すると王子は無言のままお嬢様の手を強く握り返す。
お嬢様はリュシアン王子の横顔を見上げたが、王子はお嬢様を見なかった。代わりに、足元に平伏すヴァロン侯を強い態度で睨みつけていたという。
ヴァロン侯は家長の権限で娘を支配しようとしたけれど、リュシアン王子は王族の権威を使って臣下を屈服させた。お嬢様は父親の側を離れ、王子の手を取った。ヴァロン侯はこの日ついに、リュシアン王子とジャンヌ様との既成事実を認め、リュシアン王子の求婚を認めた。
お嬢様はすっかり暗くなった部屋の向こうを見つめる。
「これで決まりだった。私もこの時、リュシアンと結婚したいと、初めて思った」
そう言うお嬢様の声が力強い。
……何てことだ。私は今まで思い違いをしていたらしい。不甲斐ない。
私は、お嬢様とリュシアン王子との婚約は、ずいぶん前から話がついていたのだと思っていた。例えば、最初のご使者がやって来た時くらいの時期に。でも全然違った。いったん断られてなお、リュシアン王子の方から働きかけを続けていたというのも、とても驚きだ。
フェリックス様がやって来た日のことも、こう考え直してみるのはどうだろうか。
自分を差し置いて婚約者を名乗る男が現れた時、リュシアン王子は怒ったふりをしてその場を離れた。まずは当事者たちに話し合いをさせるために。
リュシアン王子は頃合いを見て城に戻り、廊下で女中から事の推移を聞き出す……あの場所で私は偶然王子に出くわしたと思ったけど、実際には王子が私を待ち伏せしていたのかもしれない。
王子は私から、フェリックス様の居場所を、お嬢様とは一緒にいないことを確めた。それと、自分はジャンヌ様のもとに戻るべきかどうかを確認したがった。私が戻れと言ったから、それなら間違いないと、何食わぬ顔をしてお嬢様の部屋に現れた。
どうだろう……リュシアン王子の行動には、世間の評判にはない思慮深さと、お嬢様に対する愛情とが見え隠れする。
お嬢様も自分を信じて戻って来てくれた恋人をとても喜んだのだ……何せ、お二人のことが認められるまでに、相当の覚悟で臨んだ恋人同士だもの。周囲からのちょっとやそっとの妨害くらいでは崩れないくらいの、強い結びつきがあるに違いない。
私はお嬢様の女中で、お嬢様が私を信用して側においてくださるから、自分ではお嬢様のご要望を理解できているつもりでいた。でも実際には何も分かっていなかった。思い込んでいただけで、お嬢様が本当はどう思っていたかなんて、全然分かっちゃいない。
しっかりしろ、私。今からでも、間違わないようにしないと。お嬢様の確かな味方になるんだ。
いったん下げた顔を上げ、私はあらためてお嬢様の美しいお顔を拝見する。
お嬢様は話を続ける。
「リュシアンと結婚しようと思っても、まだ、問題があってね……」
お二人の婚約をとりまとめる上で、多大なる困難が待っていたそうだ。原因はお嬢様の家門が強すぎること。
ヴァロン家は王家の介入を恐れたけど、王家の方もまた然り。婚家の影響が及ぶことを喜ばない。それに、王子の結婚相手には別の女性をと目論んでいた者どもにとっては面白くない……と、これはフェリックス様から聞いた話。ネズミ使いを雇ってまで、妨害しようとしている。
「リュシアンは結婚と同時に、王位の継承権を放棄するのだと、その条件で合意したと教えてくれたことがある」
「……!」
私は思わずお嬢様を見る。そこまで厳しい条件を、呑んだのだ。
お嬢様は少し困ったようにため息をつく。
「もともとリュシアンは二番目の王子だから、王になるかどうかの保証もないし、ならない可能性の方が高い。争ってまで王位は欲しくないし、気にすることじゃない、と言うのだけど……」
それでも王子はお嬢様に言ったそうだ。
「君を王妃にしてやれなかった」
本当に気にしていないなら、わざわざ言ったりしない。可能性は低くとも完全に手放すことには惜しむ気持ちがある。リュシアン王子の気持ちが分かるから、お嬢様も言う。
「あなたも王冠をあきらめた」
「どうせ俺には似合わない」
「案外うまくやったかもしれないわ」
「どうかな。俺の行くところ、親たちが娘を隠すようになるだけさ」
「それは今も……何をしても同じこと」
「ん?」
「私の部屋に、あなたがいる」
まるで、今日はこの部屋にいない恋人たちの、笑い声が聞こえてくるようだ。




