第39話 義務と献身(1)
「あら、いい香りね」
お湯につかりながらお嬢様がおっしゃる。
束ねた薬草の葉がお湯に浮かび、辺りは植物の新鮮な香りが満ちている。用意してくれた女中が言うには、この薬草には美肌、鎮静と安眠、魔除けの効果があるそうだ。本当に効くかどうかはともかく、魔除けというのが私も気に入った。
お嬢様の湯浴びの手伝いで部屋には複数の女中たちが動き回る。女中たちの姿を目で追いかけて……やっぱりいない。セシルの姿はなかった。
お嬢様と一緒にリールに出掛けた女中は二人。そのうちアンナだけが帰ってきている。何があったのだろう? 気になるけど、今この場では誰にも聞けない。
私はお湯の後支度の準備を整える。こうしている間にも夕暮れの時間が迫ってきている。日没とともに城は門を閉ざし、翌朝に開門するまで、一切の入城者を受け入れない。もしかしたらと少しだけ期待していたけれど、フェリックス様やリュシアン王子が今日のうちに戻ってくることはなさそうだ。
そんなことを思いながら私はお嬢様の様子をうかがう。すると。
「レア」
姿の見えない衝立の向こうから、お嬢様は大声で呼びつけ話す。
「お前の方は、フェリックスと何をしていたの?」
女中たちの目と耳が、一斉に私の方を向く。私は慌ててお嬢様の側に駆け付ける。
お嬢様にとって使用人たちは部屋の景色の一部、動く家具調度品のようなもの。全く気にする必要はないのだ。
私の姿が目に入ると、再度、お嬢様は話を促す。
「私のいない間、あの男は何をしていたの?」
「あの方は……」
彼は城内や城下町を散策した。私はその案内をし、彼に同行したと話す。
フェリックス様のことも悪く言いたくないけど、肩入れしているとも思われたくない。なるべく憶測のない事実だけを、第三者の目があったことを話の中心にする。
市場では、彼にカラスムギを買ってもらったことを話した。買ってすぐ、全部馬にやってしまった。何も残らなかった。それを聞いてお嬢様はお笑いになる。
「まさかあの男も、自分が馬の食糧を買わされるとは思っていなかったでしょうから、一泡吹かせたわね。いい気味」
確かに泡を食ったかもしれないけれど、それは私と商店主の対決に対してのこと。でも、彼は何食わぬ顔をしてあの場の騒ぎを収拾した。
私は続いて、彼が料理屋で「魔法の金貨」を使って悪党二人組をやり込めたことを伝える。それについてお嬢様は感想を言う。
「いかさまの才能があるのね。油断ならないわ」
そういえば、誰かも彼のことを「食わせ物」と称していた。本当にその通りだと思う。口先一つで詐欺師を追い払ってしまった。
彼も自分の土地に帰れば領主だけど、ここでは単なるよそ者。カラスムギを買った時もそうだった。権力で威圧することは決してなかった。
お嬢様がお湯から上がり、化粧着を羽織る。女中たちがお湯の後片付けにかかる。
少し離れた場所でお嬢様に夜着を着せつつ、私は今日の出来事を話す。
彼が大聖堂の廟と、西の尼僧院にお母上の墓所を訪ねたと、彼の行動だけを報告する。
「意外と信心深い所があるの? それは感心ね」
お嬢様からは、まるで興味なさそうな反応が返ってきた。
「で、夜はどう過ごしたの?」
お嬢様は言い、手で合図して私以外の女中たちを下がらせる。私が話しやすいように、というお計らいではない。お嬢様は単に、仕事の済んだ女中たちが周囲にいるのを好まないから。
女中たちは話の続きが聞けなくてとても残念そう。私は彼女たちがぞろぞろと部屋を出て行くのを横目で見ながら、正直に答える。
「あの方は夜はいつも一人でお休みでした。私は部屋に帰されましたので、その後のことは存じません」
「あらそうなの。それで、お前は今日も厄介払いされて、一人で城に戻されたというわけ?」
「女連れでは行きにくい場所があるのかもしれません」
真面目な話、リュシアン王子と話し合いをするなら、男だけの方が良いこともあるだろうと、そう思ったのだ。
でもこの答えを聞いてお嬢様は大笑いする。
「ずいぶんと理解があるのね」
リュシアン王子はよく一人で遊びに出掛けなさる。お嬢様は、フェリックス様もそれと同じと思ったに違いなかった。
「それで、フェリックスは戻って来ると思う?」
「おそらく……」
あの人は、必ずそうするはずだ。
迷わずに私が答えたところで、不意に静けさが訪れた。ちょうどお嬢様の着替えが終わったところ。この後お嬢様が何をなさりたいのか、私は様子見に一歩、後ろへ下がる。
石造りの床と壁が、しんとして静寂を跳ね返す。
窓に近い止まり木では、お嬢様の使い魔の鳩が羽繕いをしている。暖炉に近い敷物の上には黒猫のレグリスが、顔をこちらに向けている。
お嬢様は部屋の高い天井を見上げ、独り言のように言う。
「この後、この部屋を誰も訪れる人がいないと思うと、静かね」
これはリュシアン王子のことを言っている、と思った。いつもなら、リュシアン王子がお嬢様の部屋を訪れるけど、今夜はそれがない。
間もなく城門が閉まる時間。リュシアン王子もきっと今日は帰って来ない……今日だけか、明日もかは分からないけれど、お嬢様はそう思っている。
ジャンヌ様は私を振り返る。
「お前も、とても落ち着いているのね」
「私がですか?」
お嬢様は、お前も、とおっしゃった。お嬢様も? 私も?
怪訝な顔をしているとお嬢様は言葉を続ける。
「このままあの男が戻らなかったら、お前は処罰を受けるのよ」
お嬢様はすぐに歩き出した。
「ジャンヌ様、お髪が、まだ……」
「このままで構わないわ」
お嬢様は肩に落ちかかる長い髪を気にせず、ベッドのある部屋の奥へと向かう。ベッドの足元には例の衣装箱が置かれている。
私はお嬢様とは別の方向へ、台の上の盆を取りに行き、急ぎ足でお嬢様の後を追いかける。
先ほどお嬢様が言われたのはこういうことだ。もしフェリックス様が城に戻らなかったとすると、私はお客様のお世話をするという仕事を放棄したことになるわけで、もっというと、私は彼の監視役のはずが彼を逃がしてしまったわけで。
仕事の失敗は相応の罰を受ける。食事抜きか、鞭打ちか、牢屋か、あるいはその全てか。……いやだな。
でも、これはあくまでも「彼が戻らなかったら」の話。それに、もし運悪くそうなったとしても、私は悔いていないし、彼のことも恨まない。
お嬢様はベッドの縁に腰かける。私が差し出した盆からワインの杯を受け取り、お嬢様は言う。
「あの男にしたって同じこと。城に戻ったお前が、あの男の所業を悪し様に言いふらして、それで自分に追手が掛かるとは思わなかったようね」
それでいいと思う。私は彼を疑わないし、彼も私を疑わない。もっとも、追手が出た所で彼は簡単に捕まるような、そんな生易しい相手ではないと思うのだけど。
お嬢様は興味深そうに私を見、杯の中のワインを飲みほした。
「お前は彼を信用したのね?」
「……」
私は言葉につまる。お嬢様の言うことを肯定も否定もできない。お嬢様より先にお客様を信用してしまったのは、重大な反逆行為のような気もする。でも、だからといって彼のことも否定できない。それだけは、どうしても。
お嬢様の手が杯を盆に置く。私はいったんそれを片付けにお嬢様のもとから下がる。
再びジャンヌ様のお側に戻ると、お嬢様はベッドの中にいた。いつの間にかベッドの上に黒猫もいて、お嬢様にすり寄っている。
お嬢様は猫を撫でながら心ここにあらず、夕闇のせまる部屋の向こうを見つめている。
「幕を下ろしましょうか?」
私はお伺いをたてる。でもその声は、お嬢様には聞こえていないよう。
お嬢様は撫でていた猫の背から手を離す。じっと自分の両手のひらを見つめる。と、片方の手でもう片方の手をさするような仕草をした。
「あっ」
私は思わず叫んでしまった。自分でも予期しなかったくらいに大声。
猫がびっくりしてベッドから飛び降りる。そのまま私の横をすり抜けてどこかへ行ってしまう。
お嬢様は顔を上げて私の方をご覧になる……何事かと思うのは、当然の反応だ。
「何? どうしたの?」
「何でもございません……」
「嘘ね。何を思ったか、言いなさい」
お嬢様は追及の手をゆるめない。
……私は昨晩のフェリックス様の反応を鮮明に思い出したのだ。
あの時、私はヴァロン侯に手首をつかまれた後だった。もう痛みはなかったけれど、なんとなく手で手首を触っていた。それを見てフェリックス様はあっと叫び、明らかに何かに気づいた様子だった。
今日の私がまさにそう。お嬢様が手を触る動作を見て気づいてしまった。お嬢様も、そうされたことがあるに違いない、と。
奥様もそうだったんだ。よく手をさするようなのは、奥様の変な癖だとずっと思っていた。でも、今なら分かる。奥様は旦那様に手をひきずられるようにしていたと、女中たちが言っていたじゃないか。
フェリックス様もきっと見た事があったに違いない。きっとそれはお母上がそうしていたことで……それで昨晩の私を見て、彼の中で何かがつながったのだ。
でもそうすると。お嬢様が手で手首をさするのは、どうして? 誰のせい? まさか、まさか……。
こんな憶測、お嬢様には言えない。代わって奥様のことを引き合いにして、私はお答えする。
「……奥様もよく、そうやってご自身の手首を触ってらしたのです。それで大変驚きまして、思わず声を出してしまいました」
「お母様が? ……なるほど、そうね、そのはずね」
お嬢様は納得したようだった。でも、それ以上に何かを知っているようで、そしてお嬢様はおっしゃる。
「私もお母様と同じね。お父様に手首をつかまれたことがある」
「……!」
「でも違ったのは、その場になぜか、リュシアンが居合わせたことね。それが私の運命を大きく変えた」




