第36話 一人、城へ
猫はネズミの天敵だから。でも、イアシントが城に来ない理由はそれだけじゃない。
私は何気ないふりをして言う。
「フェリックス様、イアシントをお連れくださいませんか」
フェリックス様は驚き、肩の上のネズミに話しかける。
「お前が来るのか?」
「うん、俺はあんたと行くべきだ。そうだろう?」
「……」
一人と一匹は無言で睨み合っている。
フェリックス様は彼の片腕のシャーズを、私の所へ残すことにした。おしゃべりなイアシントだって、百年を生き抜いた使い魔だ。フェリックス様と同行すればきっと助けになってくれるはず。私は期待を込めてフェリックス様の肩を、そこにいる野ネズミを見る。
フェリックス様は私よりも背が高い。彼の肩は私の目の高さ。その肩の上でイアシントは二本足で立ち上がる。
「なかなか、いい見晴らしじゃないか……わっ、何すんだ」
突然、肩の上にいた野ネズミをシャーズの手が捕まえる。イアシントは手足をバタつかせて抵抗を試みるが全く無駄。シャーズは野ネズミをつかんだままフェリックス様の馬の横に行く。馬の腹につけた荷物入れのフタを開けた時、イアシントが抗議の声を上げる。
「違う、違う」
シャーズは考え直し、イアシントを馬の鞍の前に乗せる。
「そう、ここでいい」
イアシントは前脚を上げてシャーズに合図をする。シャーズもうなずく。言葉はないけれど、シャーズもイアシントを応援してくれているようだ。
フェリックス様はあきれたように大きく息をつき、私に言う。
「なるべく早く戻ります。その時に、聖堂ネズミはあなたにお返ししますから」
「そうですね……」
イアシントとシャーズとだと、格が違い過ぎる気がする。私もため息をつきかけ、思い直す。大丈夫だ。イアシントの心意気を信じよう。
そしてその時、思いも寄らぬ一言がフェリックス様の口から。
「これで、あなたに会いに来る理由ができた」
そう言ってフェリックス様は微笑む。あ然として私は彼の顔を見上げる。
えっと、それは……、全然そのつもりはなかったんだけど。イアシント、あなたはそこまで気を回したの?
何気なく顔を動かした時、彼の上着が目に入る。
「フェリックス様、上着の飾り紐が少し長いようです。旅の前に結び直しを。よろしければ私が」
「……お願いします」
フェリックス様は首を傾げる。あまりそうは思っていない口調だった。
私は彼に近づく。上着の前を留めている飾り紐。それを結び直し、中に飾り結びで玉を作って長さを縮める。結び終えてから見ると、我ながら会心の出来栄えだった。見た目も長さもちょうどよい。一人で思わずにやけていると、彼と目が合ってしまった。
「何でもありません。終わりました、どうぞ」
あまり心中を探られたくない。私は素早く彼から離れる。彼は不思議そうな顔をし、上着の結び目を触って確かめる。
「面白い結び方……まるで何かのおまじないみたいだ」
「いえ、特に意味はありません。本当に、ただ結んだだけです」
「そう?」
彼はまだ何かを疑っている様子。私は心の中で苦笑い。
昨日、私は彼に帽子の被り方を説明した。結び方に意味があると教えたばかりだから、彼は変に深読みしたに違いないのだ。でも、今度は本当に何も意味はない。勘繰られるくらいなら、やめてしまおう。
「やっぱりやめます、すみません」
私は再び彼の上着に手を伸ばす。すると。
「せっかくあなたが結んでくれたのに、もったいない」
そう言って、フェリックス様は私よりも先に、自分の手で紐の結び目をおさえてしまう。
えっ、そうする? 思ってもみなかった彼の行動に、私の思考は停止する。これでは結び直しできないじゃないか。一体どうすればいい?
伸ばした手が紐をおさえる彼の手に触れそうになって、私はあわてて手を引っ込める。
彼は面白そうに私の反応を見ている。うれしそうに言う。
「あなたの気持ちを、確かに受け取りました」
……気持ち?! 私の……何の気持ち? 私は心の中で言い返す。口は開いても声が出ない。
彼は結び紐を押さえていた手で、自分の胸をトントンと叩き、その手を下ろす。
「ジャンヌを、心から思いやる気持ちをね」
……そっちの気持ちか。それならばよかった。ほっとすると同時に、なぜだか寂しい気持ちになる。
彼は冷静に言う。
「分かりますよ、あなたはジャンヌの女中なのだから、彼女のことを心配して当然」
「……」
心配はそれだけではないけれど。彼がそう理解してくれたのなら、それでいいと思う。
フェリックス様は私を見つめ、にっこりと微笑む。まるで、こちらのことは心配いらないとでも言うかのように……。
彼は言う。
「僕もかわいい妹のために、できる限りのことをしてきます」
かわいい妹?! その言葉に私ははっとなる。
ジャンヌ様はフェリックス様と父親が同じ、母親の違う兄と妹。それが事実。だけどその事実にはまだ慣れない。聞くと動揺してしまう。
思わず彼の顔を見つめると、しーっというように彼は口に指をあてる。
「兄妹だという事は、誰にも内緒ですけどね」
いたずらっぽくそう言いながら、彼はあの優しい目をしていた。ジャンヌ様のことを思って、あの表情をしている。
そうか、お嬢様が、彼の大切な存在になったんだ。良かった。私の心配している人を、彼もまたそうしてくれると思うと本当に心強い。
私は心から安心して彼に微笑みを返す。すると彼はゆっくりと、でも確信に満ちた声で言う。
「必ずリュシアン王子をジャンヌのもとに連れて来る。信じて待っていてください」
「もちろんです。あなた様を信じています」
自然と言葉が出た。自分でもびっくりする。でも、これは嘘じゃない。本心からだ。
「きっと大丈夫……」
どちらともなく腕を差し出す。私たちは短く抱き合ってすぐに離れる。
「行こう」
私はシャーズとともに馬車でヴァロン城へ。フェリックス様はイアシントとともに単騎、リールの領主館へ。私たちはいったん別れ、でも、いずれつながる道を行く。
困難な場所に向かうのだと思うと、あの不思議な高揚感が私を満たす。同じだ。尼僧院に向かう決心をした時と同じ。
何があっても大丈夫、乗り切ってみせる。そういう気持ちになる。
走り出した馬車の窓から、風景は飛ぶように流れる。馬たちは全速力で駆けている。来た時よりもずっと速い。
それでも私は思ってしまう。もっと、もっと速く……、早くお嬢様のもとへ。お願い、間に合って。お嬢様、あなたはリュシアン王子と、何度でも仲直り出来るはずなんです。そして……リュシアン王子のもとへ向かったあの人も、無事にたどり着けますように。
◇◇◇
まだ午後の早い時間。お城にはあっという間に着いた。心配するよりもあっけなく。
「ありがとう、シャーズ」
私は馬車をおり、御者をしてくれたフェリックス様の使い魔にお礼を言う。シャーズは目線だけでそれに応じる。
「マルセルにファラダも、ありがとう」
これは馬車を引いてくれた二頭の馬のため。彼らの鼻を撫で、顔を寄せ合う。さあ、ここから先は、私の番だ。
待っていたかのように黒猫が現れる。お嬢様の飼い猫のレグリスだ。猫は私を見ると走り出し、私は追いかける。
走る黒猫と、それを追う世話係の女中。あっという間に城の日常に戻った。途中ですれ違う使用人たちも、私の姿を気に留めない。
でも、走って行きながら、本当にこの方向でいいのだろうかと心配になる。
私は、レグリスがお嬢様のいる場所に向かっているのだと思っていた。だけど、この先は東の端の客間なのだ。リュシアン王子がお使いの、城で一番いいお部屋。今は留守で、誰もいないはず。そんな場所にお嬢様がいる? 何の用で?
レグリスは私よりだいぶ前を走り、迷わず部屋の中に飛び込む。少し遅れて私も部屋の入口に到着する。
おそるおそる中を覗き見て思ったのは、……あれ、こんな部屋だったっけ? 記憶にあるのと全然違う。
私は再度、室内を細かく確認する。
ベッド周りの天幕、壁にかけた豪奢なタピスリー。棚やつい立てなども入れ替えをしたらしく、ずいぶんと雰囲気が変わった。落ち着いた赤色を基調とした室内は、どちらかというと女性向きの部屋になったような。この感じ、つい最近どこかで見た気がするけど、……思い出せない。
気になるのは、ベッドの足元に置かれた腰高の収納箱。今朝までフェリックス様の客間にあったはずの物。代わりにリュシアン王子の荷物箱が部屋からなくなっている。
これはもしかして、当人たちの不在中に、リュシアン王子とフェリックス様の部屋が入れ替わったということだろうか? すると今後は、一番いい客間がフェリックス様のお部屋ということになる。客人たちの序列が変わってしまった。
「ちょっと、通るよ」
女中のアンナがわざとらしく声をかけ、私の横をすり抜ける。彼女は無遠慮に室内に入り、持ってきた花瓶を棚の上に置く。
「誰? 誰が来たの?」
お嬢様の声だ。
「お嬢様……私です……」
「レア? お前が戻ったの?」
お嬢様が私の名前を呼んでくださった。私は一歩前に進み出る。その時、別の人影が前に立ちふさがった。奥様だ。ものすごく不機嫌な顔をしている。私は身構える。
奥様は私を見るなり意外そうに目を細める。懐かしそうに言う。
「そうか、お前も、そのマントを着るのね……」
「奥様?」
「何でもない……」
奥様はすぐに元の不機嫌な奥様に戻った。そして私が一人と分かると、軽蔑のまなざしに変わり、女中仕事の不手際を糾弾する。
「お前、フェリックスと一緒ではなかったの」
奥様の目はぞっとするほど冷ややかだ。じろじろと私の全身を眺め回す。細部に渡り見透かされているようで気分が悪くなる。
「お前はお客様を放り出して、一人で帰って来たのね?」
「……」
答え方を間違えてはいけない。私は必死に探す。嘘にはならず、奥様が納得し、喜ぶ答えを。
でも、こんなことをしている場合じゃないんだ。私が話したいのは奥様じゃない。頼むからそこを通して、お嬢様に会わせて!




