第35話 鳩の気概
鳩はそれだけを言うとさっと飛びあがる。
「あ、ちょっと待って……」
それだけじゃ分からない。いや、何かまずいことが起きてる、てのは分かったけど、もっと詳しいことを教えてくれないと。
鳩は私が止めるのも聞かず、空の向こうへ一直線に飛んでいく。ヴァロン城の方向へ、きっとお嬢様はお城に帰ってきていて、鳩はそこに向かっているんだ。
でも……鳩は何と言った? お嬢様はリュシアン王子と何があった? しかも、今まで全く眼中になかったフェリックス様と、結婚する?! そんなことまで言い出すなんて、ただ事じゃない。
事態の深刻さを思うにつれ、全身から、さあっと血の気が引くのを感じる。なのに、さらにイアシントが追い打ちをかけるようなことを言う。
「伝言じゃないってことは、あの鳩は自分の意志で飛んで来たってことだろう? 使い魔が主人の命令なしに行動するってのは、よっぽどのことだ」
「お前でもそうするのか、聖堂ネズミ?」
フェリックス様が言い、腕を伸ばす。イアシントがその腕に飛び移り、フェリックス様の肩に乗る。
野ネズミは偉そうに答えて言う。
「ここぞという時だけだな。例えば、今が運命の分かれ道だ、って時とか。使い魔の方だって、命懸けだからさ」
ということは、あの鳩はやっぱりお嬢様が重大な局面にいることを知らせに……危機といっていいかもしれない。
ジャンヌ様とリュシアン王子の喧嘩はいつものことだけど、今回だけはとても嫌な予感がするんだ。そして悪い予感ほど、当たるもの。
居ても立ってもいられない。目の前のフェリックス様のことも忘れて、私はつぶやく。
「すぐに城へ……」
城に戻ってジャンヌ様のもとへ行きたい。行かなければ。
「レア」
後ろからフェリックス様に肩を叩かれた。
はっとして私は振り返る。城とお嬢様のことを思うあまり、私は彼に背を向けていたのだ。
「あの……」
彼の存在を完全に無視してしまっていたようだ。私は恐縮して少し身をかがめる。
でも彼は怒っているのではなかった。私に対してゆっくりとうなずく。
「そうしてください。僕もそれがいいと思います」
「?」
「ジャンヌはあなたに会いたがっている。彼女にはあなたの助けが必要だ」
「そんな、助けだなんて、大それたこと……」
言いかけて、はた、と気づく。フェリックス様にイアシント。確信に満ちた二人の目が私を見つめている。さっきはお嬢様の使い魔も、私の元に飛んで来てくれた。
イアシントは言っていた、もし使い魔が主人の意志に反する行動をすれば、己の存在が危うい、と。鳩には、道中カラスや鷹に襲われるかもしれないという鳥ならではの危険もある。でも何よりも、鳩は自分の意志で、使い魔としての存続を賭けてまで、私の所に来てくれた。鳩にいたわりの言葉ひとつかけず、ただ帰してしまったことを今更ながら後悔する。その鳩の強い気持ちに、私が応じなくてどうする?
……そういうことなんだ。急に私は理解する。今まで、人から信頼されて、感じていたのはわずらわしさだけだった。私に限ってそんなはずはないって言い訳をして、向き合うのを避けてきた。でも、違う。こんなにも、私を信頼してくれる人がいる、私もその人のことを信じている、って思う。それだけで、なんて心が強くなることだろう。
そんな風に思うのは、目の前のこの人のせいだ。たった今日一日、それだけなのに、信頼されるというのがどういうことなのか、教えてくれた人がいたからなんだ。
私はその人に向かって頷き、言い直す。
「もちろんです。私に出来る限りのことを」
するとフェリックス様も微笑む。
「あなたならきっとうまくやる。でも覚えていて。城にはジャンヌだけじゃない。ヴァロン侯も奥様もいて、それぞれの思惑で動いている。あなたのことも、利用しようと待っている」
「大丈夫です、ご心配なさらず。私はあなた様に会う前からずっと、お城の女中をやってきたのですから」
迷うことなくすらすらと言葉が出て来る。お任せください、と、私は繰り返し言う。
おや。ずいぶんと変わったものだと自分に驚く。自分にそんな覚悟があったとは、知らなかった。ここに、自分の責任を引き受ける確かな自分がいる。
「それは、頼もしい」
彼の言葉がまた、私を力づける。イアシントが私の肩に戻って乗る。
私たちの背後でシャーズが慌ただしく動き始めた。移動の準備だ。
フェリックス様がシャーズと目線で何かを確認し、私に言う。
「では、あなたは馬車を使って城へ。シャーズが御者をします」
「フェリックス様は?」
「リュシアン王子と話をしに行きます。おそらく彼はまだリールの領主館にいるのでしょう。僕がジャンヌに会うと、話がややこしくなる」
彼は城へは戻らないつもりだ。それならば、私が一人で戻る。それで全然構わない。
「承知いたしました」
私は軽く二回うなずき、了承した意を表す。
すると、彼はあらたまったように、真剣な顔で言う。
「レア、お城に戻る際、気をつけてほしいことがもう一つあります。尼僧院にネズミが出ないことに、気づきましたか?」
ネズミが出ない? 一瞬、考えてから私は答える。
「……はい」
尼僧院の中で出会ったリゼットが言っていたことを思い出す。ネズミが全くいないのはかえって不気味だ、と。
フェリックス様は話を続ける。
「ヴァロン家を狙うネズミ使いの話をしたことを、覚えていますか? ネズミ使いが、ネズミたちを、標的のいる場所に集めている可能性がある」
「やはり、そうか」
私より先に答えたのは、肩の上のイアシント。
「ネズミたちがヴァロン城に集められている、というんだな?」
「そうだ。今日、大聖堂でネズミ使いの魔法を破って来たから、これ以上は増えないはず。でも、既に来てしまったネズミはそのままだ」
フェリックス様はイアシントに答えて言う。私は昨晩ネズミの大群がヴァロン侯に襲い掛かったことを思い出す。
また、あれと同じことが起こる可能性があると? 次は誰を狙って?
私は不安な顔でフェリックス様を見上げる。フェリックス様は説明を続ける。
「ネズミはそんなに目がいいわけじゃない。僕は、ネズミたちがどうやって標的を探しているのかと考えていて、あの香水の香りだと気づいた」
ヴァロン侯とご一家のお使いになる香水。大事なお客様にもおすすめし、リュシアン王子も城に滞在中はお使いになる。確かに、リュシアン王子とその味方を見分けるにはうってつけの道具。
「あ、それで今日は……まさか、わざとお使いになって、確かめたのですか?」
今日のフェリックス様からはあの香水の香りがする。彼は自分を囮にして大聖堂でネズミたちを引き寄せ、反応を確かめたのかもしれない。
彼は頷いて私の考えを肯定し、さらに注意を付け加える。
「もし可能であれば、あの香水は使わない方がいい。あ、でも待って、ジャンヌと一緒に猫が帰っていれば、ネズミは手出しできないか……」
「猫だって?」
イアシントがさも嫌そうに身震いする。彼はネズミだから、猫が嫌いなんだ。猫と聞くと、どうしても無視できないらしい。
お城に帰って来ているなら、それはお嬢様の飼い猫のレグリスだ。懐く人を選ぶ黒猫で、その実態は城についている使い魔だと、フェリックス様は言っていた。ネズミに対しては十分な抑止力。
あ。今のネズミの話で思い出した。尼僧院で私はさらにもう一つ、奇妙なことに遭遇している。お城にいるリゼットの別人に出会ったことだ。
尼僧院にいたリゼットは、ネズミに襲われた夢を見たと言っていた。そのせいで怖くなって、お城に行けなくなってしまったのだと。ここでもネズミたちが悪さをしている気がする。
そして私には、尼僧院で出会ったリゼットが嘘つきだとは、到底見えなかった。お城に来るはずのリゼットがまだ尼僧院にいるのに、すでにリゼットという名前の女中がお城にいる。そっちの方が不自然だ。
と、すると。今日大聖堂で見たのと、同じことが起きている可能性はないのだろうか。私の頭は短絡的にそう考えた。
「フェリックス様、もし使い魔が人に化けているとして、それを見破る方法はありますか?」
唐突な質問にフェリックス様はびっくりした顔をする。私は考えるに至った経緯を説明し、彼は不審な女中が城に入り込んでいると知って、絶句する。
「名前だ」
別の声が答えた。シャーズだ。
「名前?」
私は聞き返す。シャーズの言葉はいつも短い。イアシントが代わって補足説明してくれる。
「使い魔なら、自分の名前を偽って言うことができないんだ。存在そのものだからな」
「……それだけ? 他には?」
何だか手がかりとしては頼りない。漠然とし過ぎている。その手がかりがどう役立つのか、全く分からない。
でも私の反応にイアシントはとても不満そう。
「それだけ、ってことはないだろう……こんな確実な方法。他にもあるかもしれないが、分からないな」
「分かった。ありがとう」
残念ながら、それ以上を議論している時間はなかった。
シャーズが馬の手綱を引いている。フェリックス様の馬のアレスを、馬車から離したのだ。
シャーズは彼の主人に確認する。
「一頭でいいか?」
「問題ない。危険はないから」
この答えに私はどきりとする。馬を一頭ではなくて二頭連れて旅をするのは、仮に一頭を倒されても旅を続けるための用心だと聞く。
「これを」
続いてシャーズは剣を掲げる。フェリックス様は服の上からベルトを締め、シャーズから受け取った剣を提げる。危険はないといいつつ、旅の常の支度だ。彼はこの後、シャーズに私の馬車の御者をさせ、自分は単騎でリールへ向かうつもりでいる。これまでの旅はずっとシャーズが一緒だっただろうに、お一人で心配ないだろうか。
そう思っていると、イアシントが私の肩からフェリックス様の肩に飛び移った。イアシントはそっぽを向きながら言う。
「お城に行けば猫がいるんだろう……俺は猫が嫌いだ」
イアシントは意味深に私に目配せし、私は彼の意図を理解した。




