第34話 終われない
彼はすました顔で言う。
「どうぞ、あなたの手を」
「それには及びません」
「でも、あなたは僕の恩人だから。あなたなしでは、僕はここまで来ることはできなかった」
「そうでしょうか?」
それは疑問だ。だって、この人は何でもできる人だから。私がなくとも、ご自身でどうにかしていたはず。
すると彼は、別の手で私を説得にかかる。
「恩人に手を貸さず、礼節を欠いた息子だと、母に思われたくない」
「……」
負けた。どうにも彼に勝てる気がしない。
私は彼に手をとられて馬車を降り、彼と一緒に並んで歩く。
尼僧院を取り囲む背の高い塀。その上の部分からはみ出すようにして、ハシバミの木が見える。ちょうどこの辺りだ。あの木の根元に、フェリックス様のお母上のお墓がある。
彼は私を見て一瞬ほほ笑み、手を放す。そのまま一人で歩き、塀に向かって跪く。頭を下げる。彼の青色のマントが地面に垂れて広がっている。
私も彼から少し離れて後ろから、頭を下げる。しばらくして私が目を開けた時、彼はまだ膝をついたままでいた。亡きお母上に語りかけ続けているのだ。
長いことそうしていた後、彼は立ち上がり、私を振り返る。
昼下がり。夕方に向かって風が出てきた。木の葉のざわざわという音が響く。彼が着ている立派なマントも、私の借り物のマントも、風に吹かれてはためく。
「もう一つ、始末をつけないと」
彼はそう言って、懐から『真実の誓い』の短剣を取り出す。
「シャーズ、力を貸してくれないか」
言われて、馬車に寄りかかるように立っていたシャーズが、走って駆けつける。
フェリックス様は短剣を鞘から引き抜く。片面の刃がきらきらと、今までにないくらい輝いている。でも、もう片方の刃は錆だらけ。
魔法の短剣は、見るたびに状態が変わっている。刃の輝きは、『真実の誓い』の成就か失敗か、その状況を表しているのだそうだけど。
彼がお城に到着して初めて短剣を見た時、刃は片面だけが錆び付いていた。これは誓いが危ぶまれる兆候だったという。
翌々日、城下町の散策から戻って確認した時、錆び付きが進行し、両面が錆び付いていた。前の晩にヴァロン侯がフェリックス様を懐柔しようとし、フェリックス様に多少の迷いがあった頃だ。
そして今日は、片面だけが錆びている。もう片側にあった錆はなくなり、むしろ不自然なくらいに光り輝いている。何かが、変わったのだ。
シャーズが近づき短剣に手をかざす。それを待ってフェリックス様が言う。
「もう『真実の誓い』は必要ない」
瞬く間に短剣の光り輝いていた刃が光を失い、鈍い色になった。鉛色の、自然な、よくある刃の色だ。
私はたずねる。
「何をなさったのですか?」
「魔法を取り消した」
「?」
「父の分の『真実の誓い』を、今僕が撤回しました」
誓いの内容は確か、フェリックス様がテオドール様の息子である、というもの。
何だか、ずいぶんとあっさり言ってくれるではないか。
「そんなに簡単に、他人の宣誓を取り消せるのですか?」
そんなことが出来るなら、最初から魔法の短剣のせいで誰も苦労しなかったのに。
思ったことが、口に、顔に出てしまう。フェリックス様は微笑してそれに答える。
「魔法を取り消すのがシャーズの力なんだ」
話を向けられ、シャーズは短くうなずく。
なるほど。それが使い魔であるシャーズの固有の力なのだ。誰でもできるってわけじゃなかった。人間の姿にもなれる、年季の入った使い魔のシャーズ。
フェリックス様は短剣を見つめると力強く断言する。
「誓いはもう、必要ないから」
誓いなどなくても、彼はテオドール様の息子として生きる決心を新たにしたのだと、私は理解する。
魔法は取り消そうと思えば、いつでもできた。でも今までそうしなかった。
フェリックス様はご両親の関係に疑いを持ち、ご自分の出生にまつわる真実を知りたいと思われていた。魔法の短剣はその謎を解く鍵の一つ。でも今やすべては明らかになり、魔法はいらない。
私はうなずき、彼もうなずく。彼は言う。
「この通り、父の誓約が取り消されたことは、見れば明白」
彼は短剣の片側が鉛色であることを確認し、鞘に入れる。きっとその鉛色が、誓約のかかっていないことの証明なのだ。
彼は一瞬だけ不敵な笑みを浮かべ、言った。
「この物騒な短剣は、ヴァロン侯に返してやりましょう」
魔法の力を秘めた危険な短剣。短剣からテオドール様の誓いが取り消された今、残ったのはヴァロン侯の誓約のみ。
ヴァロン侯は自分が立てた「フェリックス様がテオドール様の息子である」という誓いが、まだ有効であることを知っている。誓いを守るも破るも、取り消すのも、全てはヴァロン侯次第だ。それはヴァロン侯が選択すべきこと。
万が一にも誓いを破れば自身の命が危うい。だから、ヴァロン侯は誓約を取り消すことだろう。それに、過去の親同士の誓約があってもなくても、もはや事態は動かない。
魔法は、存在するだけではただの魔法、不自然な技の実現だ。人が使うからこそ、人の益にも害にもなる。私にも使い魔のイアシントが付いた。この先、もしイアシントの使う魔法が人を脅かすなら、それは私の心がけのせいなのだ。それに気が付き、私は身震いする。
さてと、ヴァロン侯にとっては、これでよし。でも奥様とお嬢様にとってはまた別の側面がある。あのお二人には、真実が隠されたままだから。
実は当初の約束はとうに取り消されていて、別の誓いがされていただなんて、まさか夢にも思うまい。
私はフェリックス様と話しながら考えを整理しようとする。
「ええと、確認させてください、奥様やお嬢様はまだ、魔法の短剣のせいで、フェリックス様と結婚しなければならないと思っているわけですよね……」
「そうです。彼女たちは、僕の父テオドールの結婚誓約が有効だと、聞かされているのでしょう?」
「はい。そうでした。すると、今、フェリックス様がお父上のテオドール様の誓約を取り消した、ということは……」
表向きには、『真実の誓い』にされた結婚の約束が、完全に取り消されたことになった。実際にはヴァロン侯のたてた別の宣誓が残っているけれど、それは結婚問題には影響しないはず。すると。ジャンヌ様の問題は、これで解決?
なんだか最後はずいぶんとあっさり片が付いた。拍子抜けして私は彼の顔を見る。
「これで、ジャンヌ様の方も、解決ですね? 晴れてリュシアン王子と結婚できる」
「そうです。僕はリュシアン王子に負けて、あきらめて自分の城に帰るんです。僕が負けを認めたとなれば王子の株も上がるでしょうし、一石二鳥」
それは、言うほど簡単なことだろうか?
でも彼が自信たっぷりに言うからには、きっと策があるに違いない。
そして彼は、彼のやるべきことを付け加えて言う。したことの非礼を詫びる。埋め合わせをする。ジャンヌ様とリュシアン王子二人の幸せを見届ける。それができてから、彼は帰る。
そこまでお考えがあるならば、と、私は少し胸をなでおろす。
彼は帰る、帰るなら帰れ。私は心の中で言う。フェリックス様はお嬢様の婚約者を名乗った厚かましい男。厄介者はさっさと帰してしまうに限る。私も含め、ヴァロン城の人々は皆そう思っているはず。
彼がジャンヌ様をあきらめて帰るというのは、大変喜ばしいこと。なのに、なぜか私は、心の底から喜びの言葉が出てこない。それどころか彼の目を見て、何か別の言い方があるんではないかと探してしまう。
一瞬強く風が吹いた。思わず手で顔をおおう。風が、彼のマントも、私のマントも、同じ方向にたなびかせる。
風がおさまると彼はじっと私を見つめ、決心したように言う。
「あなたに話が」
「話?」
「今回の件で、全て片が付いたら、あらためて僕の話を聞いてほしい。お願いできますか?」
「……」
私は即答を避ける。断る理由はないけど、返事をするのが怖い。怖い、何かを言って、この関係が終わってしまうのが怖い。
沈黙している私に彼が言う。
「お返事はいただけないのですか?」
返事? 何と言うのが正解なのだろう? 必死に頭を働かせ、ようやく私は言葉を見つける。
「大袈裟です、私はお帰りの時まで、女中としてあなた様のお世話を」
「その後は?」
「その後?」
何だそれは? 彼が帰った後のことなど、全く想像できない。私はただ首を振る。
「僕はこれで終わりにしたくない」
「私……」
私だって、終わってほしくない。言いかけた言葉をぐっと飲みこむ。何かを期待してはいけないと思い直す。
私はお城女中の一人。取り換えのきく、どこにでもいる女中。誰かに特別必要とされるわけがないのに。
でも、……私たちは客人と女中にしては、少し深入りし過ぎたのかもしれない。同じ目的を追って行動していたから、ある程度はそうなっても当然。でもこれ以上は、だめだ。私はもう一度首を振る。
何か言いたそうな顔をして彼が私に近づく。私は一歩後ずさりする。その時だった。
ばさばさと羽音がして目の前に何かが割り込んで来る。鳩だ。こんな所に、突然、鳩?
よく見るとこの鳩は、お嬢様の使い魔だと分かった。鳩は私が伸ばした腕に止まる。
「どうしたの、お嬢様から伝言?」
そうに違いないと思って聞いたのに、鳩は機嫌を損ねたように腕から飛び降りる。そのまま地面を歩き出す。
私の肩にいたイアシントが地面に飛び降り、鳩に走り寄る。鳩の周りをぐるぐると駆け回っていると、鳩は怒ったように飛び上がり、再び私の肩に乗って来た。
フェリックス様が首を傾げながら言う。
「伝言ではないけれど、レアに伝えたいことがある、とか?」
とたん、鳩は嬉しそうに一瞬羽ばたき、すぐに羽を納める。フェリックス様の言うことが当たりだったようだ。
鳩は口を大きく開け、高らかに宣言する。
「『リュシアンなんか大嫌い! 私だってあの婚約者と結婚してやる』」
げっ?!




