第32話 脱出劇
「幽霊……?」
フェリックス様は怪訝な顔をする。が、すぐに私の言わんとしたことに気づいたようだ。私はうなずいて言葉を続ける。
「そうです、幽霊が一人、出て行った所で、何の支障もありません」
「確かに、その通りだ」
彼は微笑む。そしてごく自然に私の手を握る。
……ん? なんだこの手は。
私が彼を見ると、彼も私を見る。無言のまま説明を求めると、彼は表情を変えずに答えた。
「あなたの気が変わらないうちに、ね」
握られた手をどうしようかと迷っていると、その左手首で鈴が鳴った。その音ではっとしたように彼は私を見る。
「この鈴は、私が幽霊であることの証みたいなもので……」
私は鈴の説明をしようとしたけれど、彼は私を見ていない。もっと遠くの何かを見ている。肩の上でイアシントがぶるぶるっと全身を震わせる。
一体何を……?
そう思った次の瞬間、彼は目を大きく見開き、驚いたような表情をしたかと思うと、まぶたを半分伏せてうつむく。わずかの間に目まぐるしく表情を変える。次に顔を上げた時には、両目に涙の跡。
彼の表情の変化に、うろたえているのは私。無意識に身体が傾き、彼が私の手を強く握って引き戻す。彼はじっと私を見ている。そして穏やかに微笑む。
「ありがとう。レア……」
その表情に私は吸い寄せられるよう。
これは彼が大切な物を見つけた時の優しいまなざし。ただでさえ魅力的な彼の容貌を、最も美しく見せる表情。私は彼のこの表情が好きだ。つられて私も彼を見つめ、微笑みを返す。私の気持ちもいつの間にか落ち着きを取り戻す。
フェリックス様は尼僧院長に向き合った。膝を折り、丁寧に頭を下げる。その仕草につられて、私も頭を下げる。
「院長様、お世話になりました」
「……」
尼僧院長はもう何も言わない。渋い顔をして彼と私とを見ている。
「これは、私がいただいて参ります」
そう言うと彼は私の手を放す。机の上にあった紙を取ってくるくると丸め、懐にしまう。
ようやく私の手が解放された。そう思ったのも束の間、再び彼は私の手をとり、早足で歩き出した。
フェリックス様は尼僧院長の館を出て、迷わず門へ向かう。彼に遅れないように私も必死に足を動かす。
肩の上のイアシントが叫ぶように言った。私たち以外に声は聞こえていないという気安さから、野ネズミは遠慮なくしゃべる。
「あの尼僧院長、典型的な小物の権力者だったな」
「尼僧院長は権力者じゃなくて、聖職者だけど?」
周囲に誰もいないのを確認して私は野ネズミに言い返す。するとイアシントは、ふん、と、鼻をならして大声で反論した。
「権威をかさにきているって時点で同じことさ」
「そうなの?」
「頼って来たものに手を差し伸べて、……自分は偉い立場にいるし、相手は助けてやったのだから、言う事を聞いて当然と思い込む。ところがそうならない。あの尼僧院長はそれで怒った。人間の器が狭いのさ」
イアシントは手厳しい。こういうことを言いそうなフェリックス様の方が、かえって苦笑している。
門の手前でフェリックス様は急に立ち止まる。近くで掃き掃除をしていた下働きの女が私たちに気づき、親切を申し出る。
「お出になりますか? 門を開けましょう」
声をかけてくれた彼女の正体に気付いて私はぎょっとする。さっき墓所で出会ったリゼットじゃないか。顔を隠す間もなく、私たちはお互いを認識してしまった。ひええ。
彼女は悪い人ではない。でもリゼットは私がヴァロン城から来たことを知っている。そして彼女はこの後、お城にやって来る気でいる。もしこの後お城で、私たちが顔を合わせることになったら、と思うと冷や汗が止まらない。
リゼットは私とフェリックス様の顔とを交互に見て、目を丸くしている。何かを言いかけてそれをぐっと飲み込み、手際よく門を開けてくれた。
でも、出て行く私たちに向かって、どうしても言わずにはいられなかったようだ。
「素敵な方たち……。どうぞお幸せに」
フェリックス様は彼女の言葉に一瞬立ち止まり、微笑みを返す。リゼットは魅了されたようにぼうっと彼に見とれている。私は頭を抱える。何が一番問題かって、人の目と口を、フェリックス様が全く問題だと思っていないことだ。
◇◇◇
門が閉まった。私は高い塀を見上げる。もう二度とこの尼僧院に入ることはないだろう……私に何があっても。
イアシントがするすると肩から降りて来て、私の手首に食い込んでいた紐を噛み切る。
「ネズミの面目躍如さ」
イアシントは誇らしげに言う。私は左手の鈴を外し門扉の脇に置く。手首が軽い。本当に身軽になった気がする。尼僧院の中、幽霊は何をしてもいい言われたけれど、あんなやり方、生かすも殺すも誰かの思惑次第。塀で囲われて、それで自由だなんて。
私は頭上に青空を見上げる。風はどこまでも吹き抜ける。太陽がまだ高い。
不思議なことに、尼僧院の中に入ってから出てくるまで、あまり時間が経っていないようなのだ。あんなにも長い間、ジョルジェット様の思念を追体験していたのに。
何だか自分だけ違う時間を過ごした気分。
フェリックス様と私が外に出たことにシャーズが気付き、馬車を寄せてくる。馬車に駆け寄ってフェリックス様が扉を開けた。
「疲れていませんか? 乗ってください」
疲れてはいなかったけれど、促されて私は馬車に向かう。フェリックス様はさりげなく、でもしっかりと手を取って私を馬車に乗せる。
続けて彼が馬車へ。前の座席に座った私に気づいて彼は言う。
「あなたは、こちらへ」
そして当然のように後部座席の自分の隣に私を座らせる。彼はにっこりと微笑んだ。
「あらためてあなたに、ありがとう」
「でも、それは……」
私は尼僧院の中に入ったけど、結局、後から来たあなた様に助け出されたようになってしまった。
「そんなことはない」
フェリックス様は言う。
「知らない場所に真っ先に飛び込んで行ったのはあなただ。僕は後をついていっただけ」
「でも、あなた様はお一人でも、お入りになれたでしょう?」
「あなたが行ってからすぐに、尼僧院長の馬車が帰って来ました。僕はそれを呼び止めて、……なりふり構わず、あんなに必死になったのは初めてです。それで尼僧院長も哀れに思って、男の僕を中に入れてくれたのでしょう……」
女しか入れない場所ではあるけれど、尼僧院長の館までは、院長権限で男も入れるのだそうだ。
「それに、尼僧院長の難癖に切り返したのも、あなたの機転があってこそ。おかげ様で、穏便に出て来ることもできた」
尼僧院長の方は穏やかでない顔だったけど、ね。
「レア」
不意に彼は、情熱を込めて私の名前を呼ぶ。
「魂の抜けかかった僕を助けに来てくれたのは、むしろあなたの方でしょう?」
彼の目の中に映っているのは、悲しくなるくらいみすぼらしい私。私は彼から目を背ける。
「それは私ではなくて、あなた様のお母上が、ご両親が、そうしてくださったのでしょう」
「そう、あなたは母の墓碑を見つけて、僕の両親がどうして結婚することになったのか、見てきてくれた」
「……?」
あれ、そのことは、まだ誰にも言ってない。彼が知りたがっていた事で、彼にはこれから話さないと、と思っていたのだけど。言わずとも、そんなことが分かるの?
私は思わず彼の顔を見つめる。
すると彼は私の手に手を重ねる。彼は一瞬目を閉じ、すぐに開ける。
「こうやって僕にも見えた。さっき、あなたの思念と僕の思念とがつながったでしょう。だから、僕もそれを追っかけて、見てきたわけです」
彼はそう言うと膝の上で私の手を放す。
言っていることが、分かるような分からないような。煙に巻かれたような気分でいると、イアシントが慌てて補足する。
「これが普通だと思うなよ。誰にでも出来るってわけじゃない。あんたとその男とで、場所も場所で思念が強く残ってたし、色んな条件が揃ってだな……」
普通かどうか、イアシントがそれを言うのもおかしなことだ。イアシントが私の使い魔になった時点で普通じゃないし、よくあることでもそうでなくても、起きたことが現実だ。
それにしてもフェリックス様が「見てきた」というのは、尼僧院長の机の前で遠い目をして表情を変化させていた、あの一瞬の間の出来事だろうか? 長い思念を追ったにしては、ずいぶん早すぎじゃない?
この疑問にもイアシントが答えてくれた。
「時間の流れが違うんだ。思念の中で過ごした時間が長くとも、現実ではほとんど時間がたっていない」
それで思念の外にいる私には一瞬の間のように見えたのか。どうりで。
でも、ほんの一瞬で彼は全部を見てしまった。暴力があったことも隠さず、全てを。お心を痛めたのではないだろうか。
それなのに彼が私に言ったことはといえば。
「昔のことで、あなたが代わって苦しむ必要はありませんよ」
……そのセリフはそっくりそのまま、フェリックス様のために。彼の気遣いで、かえって私が泣きそうになる。
馬車は尼僧院の塀に沿ってゆっくりと進んでいる。どこへ向かっているかはすぐに分かった。尼僧院の墓所の方角だ。
フェリックス様は懐から巻いた紙を取り出す。私は彼に訊く。
「それは? 先ほど、尼僧院長の机の上から持ち出された物ですか?」
「そう、父が母のために代筆した、遺書みたいなものかな。死後の埋葬場所とか、墓碑銘のこととか、細かいことまで書いてある。母は尼僧院に、この指示の通りにしてくれと頼んだそうです」
「そんな、……」
「でも僕はこの中に、父の気持ちの、動かぬ証拠を見つけた」
彼はうれしそうに紙を広げて私にも見せる。けど、そこにある文字が、私に読めるわけがない。
「私は文字が読めませんので……」
「そう、母も読めなかった」
フェリックス様は確信に満ちた様子で話し続ける。
「だから父は母に手紙を書いたこともなく、何も残っていない。これが唯一、父が母のために書いたもの。そして、母には読めないと分かっていたからこそ、父は本当のことを書いた」




