第31話 交錯する光
「いや、違う、そんなことは信じない……」
フェリックス様は次第に弱々しく、尼僧院長の言葉を否定する。
尼僧院長は眉を寄せ、動揺する青年に同情を示す。純真な若者を憐む慈愛の顔。
彼女は続けて言う。
「その女がここに入ったのは誰でもない、自分自身の意志でしょう」
「おっしゃる通りです」
フェリックス様は否定しない。確かに私が自分で行くと決めて、尼僧院の中に入ったのだから。
それはその通りなのだけど、何だか雲行きが怪しい。
「彼女は安らぐ場所を求めていたのです」
「そのような素振りは……見せていませんでしたが……」
フェリックス様が正しい。私は安らぎなんか求めてない。強いて言えば、フェリックス様を安心させたいとは思ったけれど。
彼の様子が変だ。力なくうつむいている。尼僧院長の言うことにいちいち感化されて、考え込んでいる。よろしくない傾向。
「彼女が指環を持つに至ったのは、あなたのせいですね?」
「はい、確かに……」
間違っていないけれど、正しくない。そのことについて私たちは話し合って、解決済みだ。もう何てことはない。
フェリックス様も変な責任を感じる必要はないのに。
「あなたは分かっていないのです。あなたが彼女を追い詰めたのですから」
「……」
そんなことを言われたら、追い詰められるのはフェリックス様の方じゃないか。
私は尼僧院長を黙らせてやりたい。でも、どうしたらいい?
二人の間に割って入りたくとも、私の身体は机や椅子をもすり抜ける。誰かの思念の中では手出しができない。
これは今起きている事なんだろうか? それとももう終わってしまった過去の事? 私を引き寄せているのは、誰?
尼僧院長はうなずきながら彼に言い聞かせる。
「追い詰められれば、偽るのは当然のこと。責めてはなりません」
その言い方が聞く相手を責めている。尼僧院長は悪い事ばかりを言う。
それに、偽るなんてとんでもない。私たちは騙し合ったりしなかった。フェリックス様、あなた様は私が正直な人だと信じてくれた。私もあなた様を信じる。
何事も慎重を期する彼が、こんな時に限ってあっさり人の言葉を受け入れてしまうなんて。悪い方に考え過ぎだ。
「彼女はここで幽霊となるよりほか、居場所がなかったのです」
尼僧院長の言う事に嘘はない。ここの尼僧院にいる間だけ、私は幽霊。でもここを出れば話は別なんだ。
それに、幽霊とは言っていても、死んだとは一言も言っていない。それなのに。
フェリックス様の身体がぐらりと揺れる。机に手をつこうとしたその手が滑って、床の上に倒れるように両手両膝をつく。
幽霊という言葉を聞いて彼が考えたことは、すでにこの世の人ではない、と……そう思い込んだのだ。
彼が何と言っているか、心の声が聞こえる。
……どうしても、彼女を取り返したい。ただ、戻ってきてくれさえすれば……他のことは何もいらない。
声なき声で泣き叫んでいるのが聞こえる。その様子にただ、私は胸を打たれる。
……私はここにいる。あなたが戻ってこいというなら、いつでもあなたのそばに。そばにいて力になりたいのに。
私は小さくなった彼の背中に近づく。その肩に触れようとして手を止める。
思念の世界の中では、何かに触れようとしてもすり抜けるだけだ。後ろから彼の肩を叩いたところで気づかれるはずもない。
それでもいい、と思い直す。私も床の上に膝をつき、後ろから彼の肩にそっと手を置く。思った通り、手が何にも触らずすり抜ける。
それでも、そうせずにはいられない。考えなしに私は彼の肩を後ろから抱きしめ、そっと頬を寄せる。
本当はこんなにも広い肩。大きな背中。なのにとても華奢で頼りなく感じる。あなたが呼んでくれれば、私はここに……。
……。……?
……あれ、彼のマントの質感が分かる。マントの下に彼の肩がある。私の頬を、熱いものが伝い落ちていくのを感じる。ああ、これは私の涙だ、涙が熱い……って、……?!
「えぇっ?!」
びっくりして声が出る。自分で自分の声の大きさに驚き、思わずその場から逃れるように立ち上がる。私が動くと左手にくくり付けられた鈴がちりちりと鳴った。
変だ。おかしい。思念の世界では何もかも感覚がない。暑さも寒さもなく、風も吹かず、音もしないはず。あっ。
その時、周囲が一瞬だけ白い光に包まれたように明るくなる。かと思うと、すぐに元の明るさに戻った。
いや、戻ったんじゃない、思念の世界のぼうっとした感じではなくて、これは自然な明るさだ、現実世界の光。
さっきまで私は尼僧院の奥にある墓地にいた。それが今は別の室内に。光も音も、実体もある現実世界に突然やって来た。
一体これはどういうこと?
私の肩でキィと鳴き声がする。野ネズミのイアシントだ。彼も一緒にここにいる。やっぱり、これが現実なんだ。
「誰?」
床の上の彼がゆっくりと振り向いた。そして信じられない物を見るように大きく目を見張る。まるで幽霊でも見ているかのように。
「あ、あの……」
どうしたものかと私が迷っていると、彼が言った。
「行かないで……!」
切実な声に私は動きを止める。フェリックス様は床に手をついてなんとか立ち上がり、ゆっくりと私のほうに近づいてくる。
「レア? 本当に……?」
「私です。あの、フェリックス様、……」
終わりまで言う前に、私の身体は彼の腕の中だ。思ったよりも強い力で抱きしめられて身動きがとれない。
「夢でも何でもいい……あなたがいる……」
「……手遅れになる前に、お会いできてよかったです」
私は彼が、誤解から極端な行動に出るのではないかと心配したのだ。だから、そうなる前に再会できてよかった。そう思って何気なく言ったのに、この一言はよくなかった。
「手遅れ……?」
彼は私の言葉を繰り返し、はっとしたように両手で私の両手を握る。
「あなたは幽霊になってしまったの……? こんなにも温かい手をしているのに?」
そう言って彼は再び私を胸に引き寄せる。わー、どうしよう。
「あなたの心臓も、確かに動いているのに……?」
私の心臓だけじゃない。彼の心臓も動いている。それが分かるくらい、私たちはぴたりと抱き合っている。
ちょっと、くっつき過ぎじゃない? 早く彼の誤解を解いて離れねばと、私は焦る。
フェリックス様は私の頬に頬を寄せる。彼の肌はまだ血の気のない冷たさ。私は全身の力を込めて言う。
「私は生きています。幽霊だというのはものの喩えです。この尼僧院で例の指環を持つ者は幽霊として扱われる、ただそれだけのことなんです」
尼僧院長に聞かれているのも構わず、必死に呼びかける。しばらく不安な顔をしていた後で、ようやく彼は納得したようだ。
「なるほど……」
少し安堵し、彼は確かめるように言う。
「じゃあ、あなたは、生きている本物のあなた?」
「当然です。でも、フェリックス様も本物のフェリックス様ですか? 私、突然この場所に現れたので、何が何だか……」
「僕はあなたに会えてうれしい」
フェリックス様の目が私を見つめ、微笑んで言う。
「でも本当に、あなたはどこから出てきたんでしょう? ……もしかして、僕のことを気にかけてくれましたか?」
「それはもう、……そうなんですが、私、さっきまでお母上の墓碑を読んでいて、途中確かにあなた様のことを思い出して、そうしたらこの部屋のあなた様が見えて、……」
「僕もあなたのことを考えていたから、……」
それまで頬を寄せていたフェリックス様がさらに顔を近づける。いくら感動の再会とは言え、さすがにそれはまずいでしょ。
私は逃れようと目一杯顔を背け、彼は笑い出す。
「なるほど。現実はなんでも僕の思い通りになるほど、都合よくは出来てないらしい」
そう言って彼はひとしきり自分で自分に笑い、抱きしめている私を手放した。いつものちょっと構えた彼に戻ったようだ。もう大丈夫。
すると、それまで黙っていたイアシントが控えめに申し出た。
「多分、レアが思念を飛び越えたってことなんだと思う」
再び私を抱きしめようとしていたフェリックス様の手が止まる。私は野ネズミに聞き返す。
「思念を飛び越えた?」
「うん、あんたがその男のことを思って、その男があんたのことを思って、それで二人の思念がつながった。あんたは入った所とは別の所から出て来てしまった、というわけで……言っておくが、よくあることじゃないぞ、決して」
そう言ってイアシントはきょろきょろと辺りを見回す。
「で、ここはどこだ? 俺たちはまだ、尼僧院の中か?」
「そう。尼僧院長の館だ」
フェリックス様が答える。私ははっとして室内の様子を、もう一人の人物を見る。
大きな机の向こうにいる尼僧院長は険しい表情。突然態度を硬化させたようで、彼女は非難がましく言った。
「ご子息、あなたは死者の神聖な言葉より、俗物の女に喜びを見出している」
「全くその通りです」
彼は悪びれず答える。むしろ、それを語ることを誇らしげに。
「私は道を探していて、どんな道でも照らす光に出会いました」
「光?」
「はい。その光があれば、心のままに生きても、決して正しい道を外れないでしょう」
……そうか、彼は彼で、何か大事なものを見つけたんだ。それならばよかった。
でも尼僧院長は彼の言葉に何の感銘も受けず、冷たく言いつける。
「正しい道というならば、ここから一人でお帰りになることです」
「なぜです? 私たちは来るとき、二人でした。もちろん二人で帰ります」
フェリックス様は尼僧院長の真意がわからず、彼女を見つめる。私も彼女の発言を見守る。
尼僧院長は威厳を笠に着たような声で告げる。
「そういうわけにはいきません。尼僧院から女を連れ出すのは重罪……重い誘拐罪です。一度入った女は、許可なく出られません」
へえ、そうなのか。もしかしてこの尼僧院長は、私が出て行くのを許さないつもりかな?
あ、でも待って。物事には二面性がある。私はフェリックス様に言う。
「ご心配には及びません。私は幽霊なんですから」




