第27話 青の墓碑銘(2)
思念の情景の中で、だんだんと室内が暗くなる。
「何か、飲み物をとってきて」
若き日のクラリス奥様がジョルジェット様に言う。本当に飲み物がほしいのか、それとも一人になりたくてそう言ったのかは分からない。
女中は承知し、女主人のために城の炊事場へと向かう。
城の廊下が薄暗い。ジョルジェット様が一人、歩いている。場所に見覚えがある。少し先に『領主様の仕事部屋』がある辺りで、昨日私がヴァロン侯に強く手をつかまれた場所に近い。
誰かがやって来て二人はぶつかりそうになる。目の前でその人はよろめいて床に手と膝をつく。
「若様……どうなさいましたか?」
ジョルジェット様がすぐに走り寄る。床にうずくまっている人は若き日のヴァロン侯だ。若様、と呼んでいるのは、この時まだ、先代のヴァロン侯がご存命だったから。
「大丈夫だ、わたしに触るな……」
若様はジョルジェット様から顔を背ける。が、立ち上がる時に大きく傾いて、結果として彼女の腕を借りてしまう。
その様子を、後ろから見ていたもう一人の人物があざ笑って言う。
「情けない男だ……立ち上がるのに女の助けを必要としたか」
その言葉に、若き日のヴァロン侯は強く女中の手を振り払う。
城の中で若様に対してこの侮蔑的な物言い、尊大な態度をとれるのは一人だけだ。城主だけが着る家紋の入ったマントが彼の身分を証明する。後からやってきたこの人は先代当主だ。今のヴァロン侯のお父上。
先代は来た方向を顎で示して言う。
「次の当主になる男が、あれくらいの儀式で消耗したか」
先代が顔を向けた方向にあるのは『領主様の仕事部屋』だ。城主だけが使う秘密の礼拝室。そこで先代と若様は儀式を執り行った。……もしかしたらヴァロン侯が言っていた「血を流す」儀式だったのかもしれない。
「違います、わたしは、……いつでもあなたの跡を継ぐ、準備ができていました」
若様は先代に反論し、途中で息切れする。胸をおさえて倒れそうな所をジョルジェット様に助けられてしまう。
「明日だ。結婚の夜、お前には夫の義務がある、必ず跡継ぎの男を……忘れるな」
先代は言い捨て、通り過ぎる。若様はジョルジェット様の顔を見つめる。不意にその手をつかむ。
「……!」
ジョルジェット様があっと息を呑む。若様の力が強すぎる。手首をぎゅうと締め付けられてジョルジェット様は顔をしかめる。
彼女は無言のまま痛みに耐えている。どこかおびえるような女中の顔を見て、若様はさらに力を込める。まるでジョルジェット様の手首を握りつぶすかのようだ。
みるみる若様の醜く顔が歪む。どこかで見たような、あの、人を見下す嫌な笑い方をする。
ジョルジェット様の心の声が聞こえる。若様、一体どうなさったというのですか……。
……これはもう起きてしまったこと、済んだこと。なのに、とても悪い瞬間に立ち会ってしまったと、そう思った。
イアシントは若き日のヴァロン侯について、真面目で素直な青年だったと印象を語った。ほんの少し前、先代と別れた時まで、彼は先代を敬い、従順で、城の後継者として気概があった。それが今、暴力でも人は動くと気付き、力による支配に舵を切ってしまった。
ジョルジェット様にも強く戸惑いの色がみえる。最初に若様が倒れた時、彼女は若様を助けるのに躊躇しなかった。まさか、こんな暴力に遭うとは、夢にも思わなかった。若様は突然、どうにかなってしまった。その変容が信じられず、ジョルジェット様は言う。
「若様、お疲れでございますか、ならば、少しお休みに……」
「休まない。その必要はない……」
低くて恐ろしい声で答えたかと思うと、突如、若様は女中の胸元に顔を押し付ける。がっくりと膝をついて両腕をジョルジェット様の背中に巻き付ける。まるで助けを求められているようで、ジョルジェット様は自分の目の前にある男の頭を見下ろす。それから思い切ったようにその頭を抱きしめる。
若様が顔を離す。ジョルジェット様は大きく目を見開く。若様は再び女中の手を強くつかむ。ジョルジェット様がおびえる。若様は立ち上がり、そのまま、彼女を引きずるようにして自分の方へ引き寄せる。女中はあきらめの表情を見せる。
行かないで!
私はジョルジェット様の手を取ろうとする。でも実体のない私の手は彼女をすり抜ける。あっと思って辺りを見渡すと、二人の姿はもうない。
彼の人は行ってしまった。進んで従ったのではなく、抗いきれない奔流に呑まれて。
……この城には亡霊がいて、道連れを探している。私にも、城の亡霊たちの呼び声が聞こえる。ひとたび捕まってしまえば、もう逃れられない。
◇◇◇
どれくらいの時間がたったのか。長い夜が過ぎたように感じても、実際には夕闇が夜に移っただけ。
廊下でかがり火がゆれている。ジョルジェット様が一人、部屋から廊下に出て来る。
彼女は手に持っていた頭巾を頭にかぶり、中に髪の毛を押し込むようにして整えている。整え終わったところで自分の手をじっと見る。手……、じゃなくて手首の内側を見ているんだ。
片方の手首にもう一方の手で触れようとして、そこではっとして顔を上げる。廊下で誰かが待っていた。
ジョルジェット様が青ざめてその人の名前を声に出す。
「テオドール様……」
廊下にいたのは若き日のテオドール様らしい。ここで出会うなんて、間が悪すぎる。
ジョルジェット様が慌てて跪いて挨拶をしようとするのを、テオドール様は制して言う。
「とても驚いた……」
テオドール様もまた、表情をこわばらせている。
「僕はロランに挨拶に来たんだ、彼が結婚前夜をどうしているか、からかってやろうと思って、……でも、先客の用が終わるのを待っていたら、……」
テオドール様は若き日のヴァロン侯をロランと名前で呼ぶ。親しい間柄だからだ。でも、その親友の秘密を彼は偶然知ってしまった。結婚前夜に、新郎の元から、新婦の女中が出て来る所を見てしまった。テオドール様は新郎とも新婦とも親しい間柄。両者の間にあって彼は苦しい声で言う。
「あなた達の仲を疑ったことはなかった。ロランもあなたも、クラリスを大事にしてくれていることが分かっていたから、あなた達に任せて間違いないと思っていた。だから僕は……」
この一言にジョルジェット様は目をむいて反射的に大声を上げる。
「まさか、それであなた様は身を引いたとでも言うのですか!?」
「それは違う。しっ……静かに」
テオドール様は口に指をあて、声を低くするよう促す。ジョルジェット様は一瞬うつむき、でもすぐに顔を上げてテオドール様を睨む。
「本当に、今日だけです……あの方は、ひどくお疲れのご様子だったのです。私がお慰めして立ち直っていただけるのならと……他に、私に何ができたでしょうか?」
若きヴァロン侯は変わってしまった。この日以来。彼の人格が昔に戻らなかったことは、私を含め後の人間が知っている。
テオドール様は言った。
「あなたは悪くない」
そして、彼もまた自分が無力だと、沈痛な面持ちで告白する。
「すまない……僕はロランとクラリスのことを、どうすることもできないんだ」
「?」
「どうしたらいいのかは分かっている、でも僕は……クラリスだけではなくて、男が女を愛するようには女性を愛せないから……」
ジョルジェット様ははっとしたようにテオドール様を見る。彼は今、重大なことを言った。
「いつから、……今までずっと、隠してきたのですか?」
若き奥様の想い人はテオドール様だった。でもテオドール様はその気持ちに応えられない。ジョルジェット様は相手から答えを得ようとし、テオドール様は力なく首を振る。
「昔からじゃなかった。でも、今の僕では力になれない」
「……」
ここでジョルジェット様がめまいを起こしたようにふらつき、床にしゃがみ込む。しばらくしてから壁に手を付き、一人で立ち上がる。テオドール様はその場から全く動かず、彼女に言う。
「僕は女性に触れないから、あなたのことも助けてあげられない」
「転んだのは私です。一人で立てます。……あなた様は悪くありません」
寂しそうに二人は顔を見合わせて微笑む。二人の心が交錯した瞬間だと思った。
「あなたは休まずに、どこへ?」
「クラリス様の御用を果たしに戻ります。……私は女中ですから」
テオドール様の問いに答えてジョルジェット様が歩き出す。
彼女が言葉と言葉の間で言おうとしたこと。お城の女中だから、理不尽なことには慣れている。そう言った気がした。
ジョルジェット様が飲み物を持って東の客間に戻ると、若き奥様は言った。
「ずいぶん時間がかかったわね」
ジョルジェット様は何事もなかったかのように言う。
「申し訳ございません。目当ての物が見つからず、思いのほか時間がかかってしまいました……」
「そう……見て」
若き奥様は最後まで話を聞かず、窓の下を指す。
「テオドールの馬車が着いてる。地方での用があって私たちの結婚式には来られないかもしれないなんて言っていたけれど、来てくれたんだわ。間に合って、よかった」
若き奥様は本当にうれしそうな様子。自分の結婚のことよりも、来てくれた友人に対して無邪気に喜んでいる。それを見てジョルジェット様は複雑な思いで顔を伏せる。
部屋を出て戻るまでの間に、彼女は女主人に対して二つの秘密を持ってしまった。一つは全く望まない形で。後々のフェリックス様の誕生につながる重大な事態。若き奥様だけが知らない。
もう一つは、女主人がひそかに慕っていた人のこと。どうして想いが通じなかったのか、その本当の理由。
どちらも、女主人に対して明かすことはできない。できないんだ……。




