第26話 青の墓碑銘(1)
リゼットと名乗った彼女は言った。
「失礼ながらヴァロン城から来た女中の方とお見受けします」
「……」
よくそんな正確なことを知っているなあと感心する。なぜと思うより先に、彼女が説明してくれた。
「朝方お城のご使者が来て言っていたことを、悪いと思いつつ聞いてしまいました。若い殿方が女中と一緒に訪ねてみえる、とのことだったのです」
きびきびとした小気味よい話し方。悪いと口では言いつつも確信に満ちた態度。その彼女が不意に声をひそめる。
「わたくし、本当はお城に奉公に上がるはずだったのですが、道中怖くなって、こちらの門を叩いたのです。幸い、ここに下働きとして、おいていただけることになりまして」
それはとても意外だ。彼女が怖がりとは、全くそう見えない。
「お城が、怖いのですか?」
私が聞くと、リゼットは一瞬だけ肩を抱えるような仕草をした。
「お笑いになるかも知れませんが、前日に夢を見まして、わたくしがお城にいて誰かに話しかけると、その人の顔がネズミになって、わたくしの肩に噛みついたのです。そこで目が覚めて、汗をびっしょりかいていました。あんなに恐ろしい夢を見たのは初めてでして」
人に化けるネズミ。それなら今日私も、大聖堂で見てきたばかり。あり得ないことじゃない。城にも出るかもしれない、なんてことは言えるわけがなく、私は代わりに言う。
「残念ながら人のいる所、ネズミは出るものだから……気にならないと言えば、嘘になるけど」
「ええ、本当にそうなんです。この尼僧院ときたら、ネズミが出ないのがかえって不気味でした。なのでお城の方がまだましなんではないかと思い直しまして」
なるほど、この頼もしい人はすでに気を取り直した後だった。でも、彼女は気になることを言う。この尼僧院にネズミが全くいないって?
イアシントも思わず口を出す。
「ネズミが出ないって、それは一番やばいやつだな。ネズミ使いに連れられて、どこかへ遠征してるのかもな」
また、ネズミ使いのせい? 今度は何をたくらんで? これ以上、厄介ごとを増やさないでほしいものだ。
ネズミのイアシントがしゃべってもリゼットは不思議そうな顔をしなかった。イアシントは私の使い魔。使い魔の声は主人にしか聞こえないから、リゼットには聞こえていないんだ。
彼女は顔を上げると、まっすぐに私の目を見て話す。
「それでお伺いしたいのは、予定していた女中が目見えしないので、お城では不審に思われていないかということです。どうでしょう、今からわたくしが参上しても大丈夫と思いますか?」
お城にはすでに別のリゼットがいる。このリゼットとはどう見ても別人。二人のリゼットがお城に来て顔を合わせたら、一体どうなるんだろう。でも、何が起きても彼女なら大丈夫だと思った。
私は答える。
「あなたのような方だったら、どこへ出てもうまくやっていけるのではないかしら」
「ありがとうございます。わたくしもそう願っております。では、あの、わたくしが逃げ出したこと、お城にはどうか内緒に願います」
「それはもちろん……」
「あなた様が幽霊ごっこをしていたことも、わたくしは誰にも申し上げるつもりはございませんので。ご安心ください。では」
リゼットは頭を下げて一礼し、素早く立ち去る。
……幽霊ごっこ。尼僧院の恐ろしいやり方を、彼女はその一言で片付けてしまった。それに、交換条件というわけではないだろうけど、しっかり口止めされた、という印象。でも、全く嫌な感じがなく、すがすがしさだけが後に残った。これはとてもよい報せ。彼女がお城に来てくれるのが楽しみだ。
リゼットが去って、私は深呼吸する。もう一度、フェリックス様のお母上の墓碑に向き合う。青色の墓碑銘に吸い寄せられるように一歩、近づく。
墓碑に刻まれた「忠実な女中」という言葉がどうしても気になる。お父上に見送られて、フェリックス様のお母上がこの場所に眠る理由が、その中にある。それを知りたい、と思う。あの人がここまで来てしまった理由が、そこにあるから。
私は青色の墓碑銘をじっと見つめ、手で触れる。その冷たい感触に突然、死を感じて恐ろしくなる。
怖いと思ったのは、フェリックス様が死ぬんじゃないかと思ったことだ。もし、彼の存在がご両親に苦痛をもたらしただけだったなら、彼がそれを知ったなら、彼は何の未練もなくこの世に別れを告げてしまうんではないかと、そう思ってしまった。
でもあの人は、私が一人でここに来る前に、「それは絶対にない」と言い切ったじゃないか。だから、今は彼の強さを信じる。必要なのは、誤魔化しではない本当のこと……。
イアシントのキィという鳴き声がした。痛いほどの耳鳴りがして、私は思わず頭を押さえる。それがおさまって頭から手を離した時、私はしまった、と思った。また誰かの思念に入ってしまった。
慌てて自分を触って確かめるけれど、触った時の身体の感覚が消えている。今まで聞こえていた風の音が聞こえないし、世界が不自然に白く明るい。やってしまった。イアシントの思念を引き寄せる力を使わせてしまった。私が知りたいと思い過ぎたせいだ。
でも、今度は思念の中での感覚がだいぶ、分かってきた。今度は大丈夫。思念に捕まらないように、という彼の忠告も覚えている。出口はきっとある。それに、本当に怖いのは、自分のことじゃないから。私は目の前の旅を続ける。
◇◇◇
目の前にある風景は、広い部屋。石造りの壁と高い天井。家具調度の整った室内、暖炉に燃える火。貴族の居城の一室だけど、なんだか見覚えがある。壁には家紋の織り込まれた大きなタピスリー。そうか、分かった。ここはヴァロン城の東の客間だ。お城で一番いい客間。今はリュシアン王子が滞在しているはずだけど、この風景の中では若い貴婦人とその女中がいる。
貴婦人は長椅子にかけてぼんやりとしている。その視線の先には天幕の上がったベッド。ベッドの上には無造作に豪華な衣服や装飾品が広げられている。婚礼用の衣装だ。
女中が言う。
「いよいよ、明日ですね」
「そうね……」
「大丈夫です。クラリス様なら、きっとよい奥方様におなりです」
「ありがとう、ジョルジェット」
貴婦人は若き日の奥様、今のヴァロン侯夫人だ、名前はクラリス。そしてジョルジェットと呼ばれた女中がフェリックス様のお母上。二人の関係については、聞いていた話の通りで違わない。
この日は結婚式の前日だ。なのに、花嫁の様子は上の空。
「ご心配事がおありですか?」
女中は若き奥様の前に跪く。そしてその手に何かを渡す。藁で作ったお守りの人形だ。城の使用人たちにはお馴染みだけど、若き奥様は、初めて見るのではなかろうか。
案の定、若き奥様は女中にお尋ねになる。
「これは何?」
「城の子供たちから花嫁への贈り物です。幸運を呼ぶお守りで、こうやって、火をつけて燃やすんです」
女中は自分の懐からもう一つのお守りを取り出し、暖炉にかがみこむ。人形に火をつけ、そのまま暖炉の中に投げ込む。
「燃やすなんて、かわいそうだわ」
若き奥様は立ち上がり、受け取った人形を棚の引き出しにしまう。代わりに、別の物を手に取る。
それを見て、私はあっと声を上げそうになる。若き奥様の手にあるのは例の『真実の誓い』の短剣だ。この時点では、奥様が持っていたんだ。
若き奥様は短剣を大事そうに握りしめて言う。
「私はね、もっと違うことを心配していたの」
「違うこと?」
「本当はね、私の好きな人は別にいたの、すぐ近くに。でもその人より先に、ロランが私を妻にと望んだから……誰も断れなかった」
ロランというのは今のヴァロン侯の名前。奥様にとってはヴァロン侯との結婚は、好きな人と結ばれたのではなかったのだ。でもヴァロン家は権勢を誇る名門だから、求婚があれば家としては断れない。そういう事情があったはずだ。
話に聞いていたのは、ヴァロン侯とテオドール様は、二人とも奥様のことが好きだったということ。でも実のところは、奥様はテオドール様を恋い慕っていた。ヴァロン侯はテオドール様を出し抜いて奥様に求婚し、奥様はそれを受け入れた。
若き奥様は少し遠くに向かって言葉を続ける。
「でもね、私の子供と、その人の子供とを結婚させると約束してくれたから、……私はだめでも、子供たちが結婚してくれたら、そうなったらいいな、って思ってるの」
これはヴァロン侯の子供と、テオドール様の子供とを結婚させるという約束の事だ。本来は男同士の約束のはずだったけど、若き奥様も確かにそう望んでいる。自分の子と、自分が好きだった人の子を結婚させるという希望を、その約束に重ねて。
「だから私、ロランと結婚するの。今の話は内緒よ」
そこまで言うと、不意に若き奥様は女中を振り返る。わざと明るい声で言う。
「そうだ、ジョルジェット、お前には好きな人はいないの?」
「いません」
「本当に? 隠さなくてもいいのよ、結婚する時にはお祝いしてあげるから」
「私は生涯、クラリス様の忠実な女中でいると決めておりますから」
ジョルジェット様は迷いなく答え、若き奥様に寄り添う。若き奥様は微笑んで女中の頭を抱きしめる。
……クラリス奥様の「忠実な女中」であること。後に墓碑にも刻んだ言葉だ。ジョルジェット様が宣言し、貫き通した信念はこれだったんだ。
でも、これは非常にまずい展開だ。若き奥様は女中のジョルジェット様を信頼してご自分の胸の内を打ち明けた。なのに、その女中がこの後テオドール様と結婚してしまう。これでは裏切られたと思っても無理はない。
だけど、ジョルジェット様とテオドール様が恋人同士だったとは考えにくい。当初フェリックス様は、お母上が嫌々結婚したのだと思っていた。それに、お二人は結婚後もずっと身体的な距離をおいていた。お二人が結婚するまでには何があったのか?




