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遅れて来た婚約者  作者: 井中エルカ


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第25話 尼僧院の幽霊

 尼僧は怪訝な顔をした。乱暴に手をつかむと私の指環を見つめる。そして私を塀の中に引っ張り入れる。背後で門扉が閉ざされた。


「来なさい」

 尼僧は私に命じ、歩き出す。私はその後について尼僧院の中を進む。点在する建物と背の高い木々が私たちを見下ろす。

 門を入ってすぐの場所にある建物は院長の居住館。その奥に来客のための宿舎、厩舎。これらを横目に通り過ぎて、私たちの足は正面に見える聖堂へと向かう。

 時刻はちょうど正午の祈りが終わった頃。尼僧たちが聖堂を出て回廊を通り、聖堂の反対側にある食堂へ向かった。

 私たちも回廊を通り、奥の談話室へと入る。石造りの壁に囲まれ、中には質素な机と椅子。頭上にある窓から明かりが差し込む。

「ここで待ちなさい」

 尼僧は私を残して部屋から出ていった。

 私はこれまで通ってきた道を忘れないように思い出す。途中に墓所らしきものは見なかった。ということは、ここよりさらに奥にあるはずだ。


 間もなく尼僧は戻ってきて、扉を閉めると言った。

「左手を、お出しなさい」

「?」

 私がそうするより早く、尼僧が私の手を掴む。いきなり、私の手首に鈴を結びつけた。あっという間の早業だった。

「私は副院長です。副院長の権限により、あなたを幽霊として迎え入れます。尼僧院にいる間はその鈴をはずさないように」

「幽霊?!」

 私は手首を持ち上げてみる。銀色の鈴はちりちりと音が鳴る。鈴を留めるぴったりとした革紐が手首に食い込む。

「幽霊はどこへ行っても何をしても自由です。尼僧たちと同じように食堂で食べ、大寝室で眠るとよいでしょう。産気づいたなら言いなさい。子どもを助けます」

 副院長の言い方が引っ掛かる。助けるのは、子どもだけ? 子どもを産もうとしている母親は?

 何だか背筋を冷たいものが通り抜ける。

「他に必要な物があれば言いなさい。尼僧たちが用意します」

 これ以上のことを説明するつもりはないらしい。副院長は、無表情のまま部屋を出ていってしまった。


 私のマントの下から野ネズミが出てきて机の上に飛び移った。彼は私を見上げて言う。

「何だか、妙なことになったな。パンを食べて、ベッドで眠る幽霊?」

「変だと思った?……しっ」

 扉のすぐ向こう、回廊を通る足音がする。私はイアシントを黙らせた。しかし声の大きさはそのまま、野ネズミは言い返した。

「気にすることはない。俺たち使い魔の声は、普通の人には聞こえないんだ」

「そうなの?」

「使い魔の主人か、よっぽど波長の合う奴にしか聞こえない。だから聞かれることを気にしなくていい」

「へえ……」

 それは便利というか何というか。でも、私は思い直す。

「でもあなた、私の声は人に聞こえてるのでしょう?」

「うん」

「じゃあ私とあなたがしゃべっていると、それは私が独り言を言っているみたいに聞こえているわけ?」

「あー、それもそうだな。それだとあんたが、頭の変な奴みたいだな……」

 野ネズミは瞬きをし、困ったというように首を傾げる。

 イアシントの言ったこと……何か大事なことを見落としている気がした。でも、それよりも。

 今はただ、行かなくちゃ。

 私の肩の上にイアシントが飛び乗る。彼はからかうように言う。

「早くしないと、塀の外のあいつが、しびれを切らして先に帰ってしまうかもしれないと思うか?」

「いいえ」

 私は迷わず答えてから、はた、と立ち止まる。イアシントの言ったこと、全くそう思わない。それどころか、彼は尼僧院の門を破るんじゃないかと、そっちの可能性を心配する。

 私がそう言うと、イアシントはくすくすと笑った。

「そっちの心配か。変わったな、レア」

 変わった? 自分でもどうしてそう思ったのか、分からない。


 

 談話室を出てすぐの所には食堂があった。中をのぞくと尼僧たちの昼食時間は終わった後。片付けをしていた尼僧が私と鈴の音に気づく。無言で空いている椅子を示し、座れと手振りで言う。彼女が無言なのは愛想が悪いのではなく、沈黙を保つという戒律のため。

 間もなく一人分の昼食が運ばれてきた。黒パンに玉ねぎのスープ。ご親切はどうも。でも、とても座って食べる気分にはなれず、私は食堂を出る。

 

 私が歩くと手首の鈴が鳴る。猫の首に鈴を付ける、じゃないけれど、存在を遠くから知らせながら歩いているようだ。

 尼僧たちは遠くから私を見て、挨拶をしてくれる。立ち止まって、私に向かって聖なる印を手で切る者もいる。

 突如、私は理解した。これが尼僧院のやり方なのだ。


 領主家から逃れた者をかくまったとしても、幽霊だということにしておけば問題にならない。いくらでも追及をかわすことができる。『領主の赦し』の指環の事情を知らない末端の尼僧たちも、責めを問われることはないだろう。

 いや、でも。物事には両面があるものだ。現れては消える幽霊ならば、消えたところで誰が気にするわけでもない。知らないうちに葬り去るのも容易なこと……。

 私は身震いした。こんな気味の悪いところに長居は無用だ。目的を果たして早々に退散しよう。


 

 ◇◇◇

 

 回廊を越えて敷地の奥に墓地を見つけた。予想通りでなかったのはその広さだった。

 ずらりと並ぶ墓碑石は、敷地を囲む高い塀のそばまで迫っている。この多くの中からフェリックス様のお母上のお墓を特定するのは、簡単ではない。

 そう思っているとイアシントが風の匂いをかぎながら言った。

「感じる、あっちだ。あっちの木の下……」

 彼が示したのは墓地の端の方、そこにはハシバミの木が一本、人の背の高さほどに、枝を広げていた。

 

 近づくと、まだ新しい墓石があった。墓碑銘が一行、彫られていて、当然、それは私には読めない。彫った文字には鮮やかな青の色が塗りこまれてある。

 その青色を見るなり、イアシントがつぶやいた。

「嫌な青だな。永年、写字生たちを苦しめた緑青(ろくしょう)の色と同じだ」

 写字生というのは書物を手書きで写す仕事をする人のことだ。イアシントは長く大聖堂に暮らしていたから、そこで働く写字生たちをよく見てきたのだろう。

「苦しめたというのは、どういうこと?」

「緑青の色の塗料は毒だ。もっとも、高価なものだから、誰でも手に入るというわけではないが」

 イアシントは墓碑の上に飛び降りた。彼は青い文字に鼻を近づけ、確かめるように匂いを嗅いだ。

「量によって効果が違う。少なければ、どうってことはないが、長きにわたって触れ、吸い込み続けると異変を来す。ある日突然中毒症状が出て、死に至る。もし量が多ければ、即効性の毒だ。この文字に塗られた分で、ひと一人に十分効く」

「この青の毒は、堕胎するのにも使われた?」

「その通り」

 私は『領主の赦し』の指環を受け取ったときの、モリスの言葉を思い出す。彼はこう言った。

 『一回まわせば堕胎する分だけが、二回まわしてからフタを開ければ、人ひとりに十分効くだけの毒が出てくる』

 ふと思いついて、私はフェリックス様から預かった指環を取り出した。指環はとても傷だらけ。ひどく傷ついてすっかり金属の輝きを失っている。

 私はおそるおそる指環のメダルをまわす。一回、二回……。そしてフタを開ける。中から青い粉は出てこない。

 この指環は、すでに粉を取り出した後だ。毒の粉は何に使ったのか、もしくは、誰に?


「イアシント、墓碑に何て書いてあるか、読める?」

 聞いた途端、目の前の墓碑銘の読みが頭の中に飛び込んできた。

 あ、この感覚、前にも覚えがある。モリスのリスが私に手紙を読ませた時と同じだ。

 

『あなたの忠実な女中 ジョルジェット』

 ジョルジェット? そうだ。フェリックス様のお母上の名前。ここが、お母上の墓前だ。


「ああ、レア。すまない、俺は自分を止められない……」

 イアシントの声がする。見ると、彼は目を閉じて両前足で頭を抱えている。

「思念の主が、待っていたんだ。その指環を持って、尋ねて来てくれる人を……うわああ……」

 イアシントが絶叫する。

 一瞬のうちに、世界から音が消えた。耳鳴りがして頭がしめつけられるよう。思わず私は両耳を押さえ、それがおさまった所でゆっくりと手を離す。見ると私の足元がかすんで消えている。

 この感覚も知っている。誰かの思念の中に入ったんだ。

 

 目の前には墓石に模様を掘っている石工。石工は手に『領主の赦し』の指環を持っている。

「この中の青を使えって言われても、開け方が分からねえぞ」

 石工は指環をこじ開けようと、手にした槌でコツコツと細かく叩く。なるほど、そうやって指環に傷がついたんだと納得する。

 やがて石工はメダルを回すことに気づき、フタを開ける。そこから青色の粉を取り出して板の上で糊料と混ぜる。筆に青色をとる。

 そうか。指環の中の粉は墓碑銘を塗るのに使ったんだ。よかった。他(・)の(・)こ(・)と(・)に使ったのではなかった。

 でも。モリスは彼にどこまで伝えたのだろう。フェリックス様は気付いていただろうか。お母上が持っていた指環に、入っていたはずの毒が入っていなかったことを? 何に使ったと思っただろうか。まさか、お母上がご自身に使ったと、そう疑ったのではないだろうか? そうだとしたら、大変だ。

 

「あの、もし、幽霊さん……」

 突然女の声に話しかけられる。その声で、私ははっと我に返った。ごうっという音がして風が吹き抜ける。木々のざわめく音が再び聞こえる。

 自然な明るさ。静寂の世界から現実に戻った。思念を抜けて、戻ってきたんだ。

 

 振り返って、声をかけてくれた主を確かめる。私は彼女に答えて言った。

「私に、話しかけているの?」

「そうです。本当は、幽霊さんと口を聞いてはいけない決まりなんですけど、どうしても聞きたいことがありまして」

 そう言う彼女は、下働きの女のようだった。なおも私が不審がっているとみて、彼女は名乗った。

「私、下働きをしているリゼットと言います」

 リゼット? 先日、城に来たばかりの女中と同じ名前じゃないか。私のベッドで寝ていた女中。名前が同じなのは単なる偶然?

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