第24話 西の尼僧院
馬車が止まった。車窓から、高い塀がぐるりと取り囲んでいる場所が見える。正面には固く閉ざされた門扉。奥に背の高い尖塔。とうとう着いてしまった。西の尼僧院だ。
「着いた」
ためらっている間もなく馬車の扉が開き、シャーズが顔を出す。
「ありがとう、シャーズ」
フェリックス様が先に馬車から降りる。続いて私が降りようとした時、彼は私を見上げて自分の手を差し出す。
一瞬迷って、私は両手で服の裾とマントを持ち上げながら降りた。彼の手なんか借りなくていい。だって、一緒に笑うことがあっても、所詮、……私は女中だから。
フェリックス様は私が降りるのを見、何も言わずに出した手を戻す。
その時、カラスの鳴き声がした。
はっとしてフェリックス様が歩き出す。私が小走りにその後を追うと、塀の上から今まさに黒いカラスが飛び立った。
こんな場所にカラス? 嫌な予感がする。フェリックス様が空を見上げて言う。
「奥様の使い魔だ。先回りして来ていた」
「……!」
驚くと同時に怖さを感じる。奥様は、フェリックス様がこの場所に来ることを予期して待ち構えていたのだろうか?
私が聞くとフェリックス様は言う。
「可能性はありますね。奥様はそれを確かめるために、使い魔を寄越した」
カラスが飛び去った方向。青い空の向こうはもちろん、ヴァロン城だ。
フェリックス様は尼僧院に来た理由について、こう言った。
「『領主の赦し』の指環をずっと持っていたのなら、母は死んでこの場所に帰ってきているのではないか、と。これが、モリスが僕にくれた手がかりです」
経緯は分からないけどフェリックス様のご両親は結婚した。二人はお腹の子の親になった。それで終わりじゃなかったんだ。お母上が死してなお、西の尼僧院を目指したなら、そうしなければならなかった理由はなんだろう?
尼僧院の正面へと向かう足取りが重い。
モリスがフェリックス様に話したことによれば、お母上は女中として奥様に仕え、信頼されていたという。が、お母上とテオドール様が結婚した際、奥様は彼女を罵って城から追い出したそうだ。
……分からない。最初にモリスから『領主の赦し』の指環をもらったのは奥様だった。奥様がお母上に指環を渡した? 結婚相手のいる女中にそんな物はいらない。ましてや、城から追い出すくらい憎い女中に、わざわざ指環を渡す理由がどこにある?
「僕にも分かりません」
フェリックス様は首を横に振る。
「分かるのは、母は自分の意志でここに戻ったということです。死の間際に父と相談し、尼僧を呼び、そして死後、父が付き添って墓地に行った。行き先は僕にだけ知らされなかった」
言葉の最後でフェリックス様は口を閉ざして下を向く。彼の逡巡する気持ちが伝わってくる。お母上の墓所を尋ね当てて来てしまったけれど、本当に来てよかったのかどうか、迷っているんだ。
でも、来て何の悪いことがある? どんな事情があれ、この人はご両親から大事にされて育ち、この人もご両親を敬愛していた。それは間違いようがなく明らかだ。
彼は純粋に慕う気持ちでお母上の跡を追ってきた。それだけだ。ご両親が息子を怒るはずもなく、息子もご両親を恨みに思わない。
「取次ぎを頼みましょう」
私は言う。フェリックス様は顔を上げ、うなずく。
◇◇◇
通常、尼僧院の中の女たちは、俗世の男と口をきかない。が、院長であれば話は別で、自身の判断で外部の人間と会ってくれる。
今日はあいにくとその院長が留守だった。モリスはあらかじめ尼僧院に使者を送ってくれていたが、その使者の来る前に院長が出かけてしまったのだという。
「お母上の墓所を訪ねて来られたのですか……でもお気の毒に……男性はお入れできないものですから」
わずかに開けた門扉の隙間から一人の尼僧が答えてくれる。本当に申し訳ないという感情が顔と声に現れている。しかしその眼差しはうっとりとフェリックス様に見とれ、一瞬たりとも目を離そうとしない。
尼僧は尋ねる。
「あなた様のお母上というのは、どなたでしたか?」
「ルメール伯夫人ジョルジェットです」
尼僧はそれを聞いて、何も答えず沈黙する。尋ねる墓所がここにあるともないとも言わない。少なくとも否定はしなかった。答えて良いかどうかの判断が彼女にはできないから、何も答えない。そう思えた。
尼僧院と外界とは、厚くて高い壁が隔てる。今、門扉の隙間からは、尼僧たちが集まって興味津々で事態を見守っている。それもそうなるはずだ。
こんな周囲に何もない場所の尼僧院。毎日の勤めは厳粛に、決まった日課を繰り返す。閉ざされた塀の内で暮らせば、外界のほんのちょっとした変化が想像をかきたてる。急の来客は珍しいし、しかも若くて美男子の貴族がやって来た。見に来るなという方が無理だろう。
注目されていることを分かってか、フェリックス様も魅力的な微笑みを振りまく。礼儀正しく頭を下げて言う。
「出直してまいります。……お勤めの邪魔をして申し訳ありませんでした」
彼が背を向けると名残惜しそうに重い門扉が閉じた。門扉の向こう側で尼僧たちのざわめきと、それをたしなめる高位の尼僧の声が聞こえるよう。
馬車まで戻るとフェリックス様は言った。
「出かけていた院長が帰って来るかもしれないし、まだ時間があるから少し待ちましょう」
彼は空を見上げる。時刻はちょうど正午くらい。城へは夕方、城門が閉まるまでに帰るとして、まだ時間の猶予がありそうだった。
彼の表情を目で追いながら思う。待って院長が戻らなかったら、本当に出直すつもりだろうか? このまま何もせず、あきらめて帰る?
ヴァロン城からはそう離れてはいないけど、フェリックス様にとってはご自身の領地の外、遠い場所。再び訪れるのは、言うほど簡単ではなさそうだ。
私はフェリックス様に声をかける。
「待つのもいいですが、先に私が参りましょうか?」
「あなたが?」
「私は女ですから、尼僧院の中に入れます。お母上のお墓があるかどうか見て来て、あれば墓前で、ご子息が来ていることをお伝え申し上げましょう」
「しかし……」
彼は態度を決めきれない。何が彼をためらわせている?
「ご心配なのですか?」
「あなたのことが?」
彼は私の質問に質問で返す。
……あのですね、あなた様の心配の種が、私なわけ、ないでしょう?
「いいえ。あなた様ご自身のことです。失礼ですが、お気持ちに不安があるのではと」
「僕の? なぜ?」
「お母上の墓前で、何か新たなことを見聞きするかもしれません。そうしたら、あなた様はお気持ちが揺れて、お心変わりなさいますでしょうか?」
「変わる?」
「例えば、ご両親を恨み、ご自身の生い立ちを呪い、この世の全てが無駄であると、そうお思いになりますか?」
「いいえ。それは絶対にありません」
彼はきっぱりと言って首を横に振る。
「では何も問題ありません。私が行って、確かめてくるだけです」
フェリックス様は少し困ったような顔をして言う。
「本当に、あなたがそうしてくれるのはありがたいのです。でも何というか……」
「今ここに、他にそうすべき人がいないのですから。当然でしょう?」
彼はじっと私の目を見る。私も彼の目を見つめ返す。ここでようやくフェリックス様の決心がついたようだ。
「では、あなたに頼みます」
「かしこまりました」
「でも、約束してください」
「?」
「中であなたが何を見聞きしても、道理に合わないと思っても、一人で戦わずに戻って来てください」
「はい?」
「もしあなたが戻らないならば、尼僧院といえども、僕はあなたを探しに門を破らなければならない」
彼のあまりにも真面目な態度に私は一瞬言葉を失う。これは、何かの冗談だろうか?
私は手を振って彼の言うことを否定しようとした。
「いや、そんな物騒なことは……」
「ものの例えですよ。こちらもそれくらいの覚悟でいるということです。分かりましたか?」
彼は私に返事を迫る。冗談ではすまされない迫力があった。
「分かりました……」
私はうなずき、それを見て彼もうなずく。よく分からないけれど、約束させられた。
「俺はレアと一緒に行くぜ」
それまで首の後ろにいたイアシントが肩の上に出て来て言った。フェリックス様は肩の上の野ネズミに向かって手を伸ばす。イアシントがその手に前脚を乗せ、二人も何かを約束する。
「そうだ、これを。何かの役に立つかもしれない」
フェリックス様はそう言うと自分の懐を探る。彼のお母上の『領主の赦し』を取り出し、私に持たせようとする。
少し考えて私はそれを受け取る。代わりに私は自分が持っていた指環を彼に渡す。彼は受け取ろうとしなかったが、私は言った。
「もし院長が戻られた時、実物があった方が話がしやすいのではありませんか?」
「分かりました」
私たちはお互いが持っていた指環を交換する。一瞬、その手が触れた。彼の手は温かい。私よりもずっと大きくて力強い手。そして彼の手の触れるところ、彼の優しさを感じる。
私は彼の顔を見上げて微笑む。作り笑いなんかじゃない。自然と湧き上がる何かを感じる。不思議な高揚感が私を突き動かす。
さあ、行って見てこよう。この塀の先、何が起きても私は大丈夫。それどころか、私に出来ることがあるなんて、とてもいい気分だ。
◇◇◇
私が一人、門扉を叩くとすぐに尼僧が現れた。
「何か?」
門扉の隙間から尼僧がぶっきらぼうに言う。さっき取次ぎに出てくれたのと同じ尼僧だ。なんて雑な扱い。フェリックス様の時とずいぶん態度が違うじゃないか。
尼僧は私をじろじろと値踏みして言う。
「下働きを希望の方? 今は間に合っています」
僧院には尼僧たちと、聖務とは関わらない下働きの女たちがいる。お城女中の私の外見は下働きの志願者と思われたらしい。
もっともな判断だけれど、今は事情が異なる。あ、待って。閉じようとする門扉に私は食い下がる。
「お待ちください。あの、……保護を求めます」
私はとっさに例の指環を差し出した。




