第21話 婚約者の資格
フェリックス様は笑顔で言う。
「こっちの方が天井が高いから、頭をぶつけずに済むでしょう?」
でもこの場所では隣のあなた様にぶつかる。それは避けたいなあ、などと思っていると、イアシントが私の膝から飛び降りた。私とフェリックス様の間に陣取る。私に向かって意味ありげな目配せをする。あら私、あなたに何かをお願いしたかしら。
おっと、こんなことを気にしている場合じゃなかった。今が聞く時だ。今度こそ、はぐらかさずに答えてくれるはず。
私は姿勢を正す。息を整え、覚悟を決める。
「お聞きしてもいいでしょうか」
「何でしょう?」
「フェリックス様は、本当にお嬢様とご結婚なさるおつもりなのですか?」
私たちの目が合う。少しの沈黙。それから彼ははっきりと否定した。
「いいえ」
この瞬間、ああ、よかった、と思う。安堵で力が抜ける。でも彼の答えはこれだけでは終わらない。
「一昨日、その必要がないことが分かってしまいました」
え? 再び私は背筋を伸ばす。彼は言う。
「魔法の短剣に誓っていたのはきっと、テオドールの子とヴァロン侯の子を婚約者とする、ということでしょう?」
私はうなずく。ヴァロン侯夫妻がそう言っていたから。
「でも僕は血統的にテオドールの子ではないから、誓約に従ってジャンヌと結婚する必要はないんです」
えええええ。……唖然としてしばらく言葉が出てこない。
「そう……なんですか?」
「そういうことです。テオドールの子はこの世にいないから、ジャンヌの結婚相手も自由です」
フェリックス様は平然としているけれど、すごく悲しい言い方だ。まるで自分で自分を否定しているみたい。お嬢様の結婚に何の妨げもないと分かったのに、喜ぶだけでない私がいる。
でも、この急転換、私たちが今まで思い込んできたのは何だったのだろう。
「フェリックス様は元からご存じだったのですか? それとも今になって誰かが言ったのですか?」
「僕は全く考えつかなかった。誰かが言ったかどうかというと……、しいて言えば、奥様でしょうか」
奥様? その言葉に驚いて私は彼を見つめる。彼は私にうなずいて言葉を続ける。
「そもそも、ヴァロン城に来たのも奥様の手助けがあってのことなのです」
奥様が? 奥様がどういうつもりで?
「レア、少し話をさかのぼってもいいですか?」
「はい……」
私がうなずくとフェリックス様は思い出すように話し始める。
「『領主の赦し』の指環が母の残した謎ならば、『真実の誓い』の短剣は父の残した謎でした」
フェリックス様のお父上が生前に語ったことといえば。
まず、その短剣に『真実の誓い』の魔法がかけられていて、誓いを破れば命がない、ということ。
次に、お父上が魔法の短剣に誓ったことが、生まれて来る子、つまりフェリックス様を、自分の子として育てる、ということ。
そして、最後に一言付け加えたという。
「もう絶交してしまった親友も、同じことを誓い合った。彼もどこかで見守ってくれているはずだ」
ちなみに、ご両親は結婚の際、多くの人との親交を失ったそうだ。なので「絶交した親友」が誰なのかは特定できない。
ここまで聞いて、私は、えっ、と思う。今まで聞いていた話と全然違うじゃないか。結婚の約束は、どこへ行った?
それに、「自分の子として育てる」だなんて、それが命をかけてまで誓うこと?
フェリックス様も言う。
「妙でしょう? 自分の子として育てることをわざわざ誓うだなんて。まるで、本当の親は別にいて、僕が実の子ではないと言っているようだと、そう思った」
「……」
私もそう思ったけれど、とてもそんなことは言えないし、彼も人から言われたくないはずだ。
私は返す言葉を見つけられない。
その後相次いでご両親が亡くなり、彼はまず、ヴァロン城を訪れることを考えたという。お母上が女中をしていた場所だし、ご両親もそこで挙式しているからだ。
貴族同士、親交を深めるために客人を招いたり招かれたりはよくあること。フェリックス様も、知人を間に立ててヴァロン侯の招きを受けたいと申し入れをするが、全く返事がもらえない。身分が格下なので相手にされないのだ、と彼は考えた。ところが。
その時の事を、彼はこう話す。
「何度も無視される僕を見て不憫に思ったのか、奥様が救いの手を差し伸べてくれたのです」
「奥様、なんですね?」
「そう、奥様です」
奥様はフェリックス様にこう言ったという。
「テオドールの持っていた魔法の短剣を知っている? 彼と私の夫が誓い合ったの。彼の息子は私の娘と結婚するはずだったのに。もしあなたがジャンヌの婚約者ならば、夫はあなたを無視できないわ」
あ、奥様の口から婚約の話が出た。これが私たちが聞いていた話。でも、フェリックス様がお父上から聞いた話とは違う。どういうこと?
私が確かめるようにフェリックス様の顔を見ると、彼もまた私を見てうなずく。
「そうなんです、僕も混乱しました。でも、奥様が魔法の短剣のことを知っていたから、誓いを立てたもう一人が、ヴァロン侯のことだと分かりました」
「そうして、フェリックス様はお城に……」
お嬢様の誕生日、城が広く開かれている日に彼はやって来て、お嬢様の婚約者だと名乗った。
「あなた様は奥様の話を、お信じになったのですか?」
「いいえ。信じたのではなく、奥様の顔を立てたのです。僕は父が嘘を付くはずがないと思っています。でも、もし二人の見解で食い違いがあるならば、三人目の意見が欲しいと思うでしょう?」
いちいちごもっとも。この人の行動にはいつも理由がある。
フェリックス様は話を続ける。
彼がお城に来ると、ヴァロン侯は、『真実の誓い』で約束した内容について、奥様と同じ見解を示した。フェリックス様を否定せず、追い返さなかった。あの時の騒動は思い出すだけでもお嬢様にお気の毒。
こうしてフェリックス様はまんまと、ヴァロン城の正式な客人となり、調査に乗り出す。
「さて、一昨日の夕方のことです。僕はヴァロン侯夫妻の夕食に招かれました」
城に来て翌日のことだ。既にお嬢様とリュシアン王子はリールの領主館に出発した後で、同席していない。
その日の食卓は、まず亡くなったばかりのテオドール様を偲び、弔いの言葉をかけるところから始まったという。
その時に奥様が何気なく尋ねた。
「テオドールはきっと、彼の妻と並んで眠っているのでしょうね? 生前と同じように、二人仲良く……」
「いいえ。母は希望により、故郷の土地に埋葬されたと聞きました。詳しくは父しか知りません」
「まあ、それはお気の毒……お母上が身を引いたのかしら」
かつてのご両親の身分差が、死後も続いていると想起させるような言い方で、フェリックス様は非常に不快感を覚えたそうだ。
そういえば昨日、ヴァロン侯もお母上の墓所を嘲っていた。死者に対して酷いことをする。
「その後、食事が進んだところで、ヴァロン侯は次から次へと条件を示し……」
ヴァロン侯はフェリックス様と取引をしようとしたらしい。
君が娘と結婚したいのは何のためだ? 野心のためか? それならば私が君を助けてやろう、魔法の短剣など必要ない。……高位貴族の身分か、それとも宮廷の要職か? ルメールなどという辺境ではなく誰もが認める領土、あるいは名門貴族との結婚……何が欲しい……?
フェリックス様がそのどれでもないと答えると、奥様がこう言ったそうだ。
「テオドールも、きっとあなたと同じことを言ったでしょうね。あなたたちはさすが親子ね、よく似ているわ」
テオドール様とフェリックス様は実の親子ではない。そうと知ってから聞くと、とても嫌味に聞こえる。
食卓を囲んで話す中で、さらに奥様は懐かしそうに言った。
「でも本当に偶然だったのね、テオドールには息子が、私たちに娘が生まれた。子供がなく養子を迎える可能性だってあったし、血を分けた子が男女でなかったかもしれない。もしそうだったとしたら、子供たちを結婚させようなどという約束は、そもそもないことだったでしょうからね」
これを聞いたヴァロン侯とフェリックス様の手が止まる。顔色を変えて凍り付く二人。
「僕は最初しまった、と思ったのです。何食わぬ顔をして奥様の発言をやり過ごせばいいものを。激しく動揺してしまったことが、誰の目にも明らかだったからです。でも、席にいるヴァロン侯を見ると、そこにいるのはまるで僕だった」
自嘲気味に彼は言う。
「僕と同じように表情を変え、そっくり動きが止まってしまった人がいた。これでヴァロン侯もまた、僕と同じことを考えたとわかりました」
そして、奥様はそんな二人の様子を見て、ひとり落ち着き払った態度で、笑みを浮かべていたという。それでフェリックス様は確信する。ヴァロン侯夫妻が、自分がテオドール様の子でないと知っている、と。
……えっ? これでどうして、知っていると分かるの?
私はフェリックス様に尋ねる。
「どういうことですか?」
「奥様の言ったことは事実と逆でしょう? 実際には僕はテオドールの子でないから、誓約のいう『子供たち』という前提が成立せず、誓い自体が無意味なんだ」
表現は違えど、その点はさっきフェリックス様からも聞いた気がする。
「ヴァロン侯と僕は、奥様の言ったことが逆だと気づいた。言葉の通りに受け取らず、逆だと気づいたのは二人とも僕がテオドールの子でないと知っているからだ。そして奥様も、僕たちを見て、僕たちが何に動揺したのか気づいた」
「……」
それは緊迫した一瞬だったはずだ。
「もっと早くに気づくべきだった。僕は……血のつながらない親子だと頭で分かっていても、それがどういう意味をもつのか全く想像できていなかった。これが僕の詰めの甘いところだ」
私は首を小さく横に振る。それがあなた様の優しいところです、と、心の中では言い換える。




