第20話 追憶の中
私の目を見つめ、フェリックス様は言う。
「そう、僕の予想は全く違っていた。母が背負っていたのはそんな美しい思い出じゃない。実際にこの場所に来て、よく分かった」
だんだん話がつながってきた気がする。この人が市場で装飾品を見て回ったり、女中の格好についてお尋ねになったりしたのは、すべてお母上のことを知りたかったからなんだ。
「するとフェリックス様は、昔のお母上のことを探しに、ヴァロン城にいらしたのですね?」
「その通りです。母がどんな気持ちでいたのか知りたかったし、本当の父親が誰なのか知りたかった。両親はお腹の子が自分たちの子ではないと分かっていて結婚したはずだし、一体どんな事情があったのか、知りたいと思うでしょう?」
知りたい気持ちはその通りだと思う。でも、そのために彼がとったやり方が、ちょっと。
非難めいた私の視線を受けつつ、フェリックス様は言葉を続ける。
「……身分差の結婚は周囲の風当たりが強く、両親は相当つらい思いをしたようです。当時のことはとても聞ける雰囲気ではなかった。もし僕が母の過去にゆかりの場所や人を訪ねたと聞けば、両親はとても悲しんだことでしょう」
彼は視線を外し、車窓から外の景色を見る。見通しの良いなだらかな丘陵が広がり、静かに風景が流れる。
これで彼が今になってやって来た背景も分かった。ご両親が亡くなり、喪が明けてすぐ、彼はこの土地を訪れた。知りたいという気持ちは抑え難く、でも彼はご両親を悲しませたくなかったのだ。出生はどうあれ、きっと愛情深く育てられた、そんな子供時代だったと想像する。
と、突然、私はめまいに襲われる。頭が大きくゆっくりと揺れる感覚がして世界が回る……。いったん閉じた目を開けると、そこは何かが変だ。
自分の足元が見えない。自分に触れようとすると、実体がなくすり抜ける。意識は覚醒したままなのに、夢を見ている。そうとしか言いようのない現象。
目の前では見た事のない部屋の風景が広がる。元気な子供がいる。髪を肩のあたりで切りそろえた幼い男の子。
その男の子は自分の背丈と同じくらいの白い大きな犬……じゃなかった、白いキツネとじゃれあって、転がるように走り回っている。おや、キツネがこんな風に人に慣れるなんて珍しい。
広い部屋はおそらく貴族の城の居室だ。石の高い天井、立派な壁掛け、敷物に家具と調度品。
布張りの長椅子に若い男性が座っている。走り回る男の子を見つめていて、この人は男の子の父親だろうか。彼はゆったりとした品の良い衣服を身に着け、一目で貴族身分と分かる。
そのすぐ脇、長椅子に寄りかかるようにして女性が床の上に座っている。視線の先にはやはり男の子。でもこの女性の服装は男性に比べてずいぶん見劣りする。赤茶けた色の古い服、頭を布で包んで隠し、まるで男性の女中みたいだ。
走り回っていた男の子がやって来て長椅子の上によじ登る。座面に立ち上がって誇らしげに周囲を見回す。あ、危ない。そのまま後ろに倒れて、頭から床に落ちそうになる。
男性と女性が同時に気づいて立ち上がる。二人とも男の子の落下を防ごうと手を伸ばす。その手は間に合って男の子に届く。届いたはずなのに。
二人の手が、身体が、ぶつかりそうになる。 はっとして二人の動きが一瞬止まる。お互いの顔を見てしまう。その隙に男の子は椅子から転がり落ち……落ちなかった。さっきの白キツネのおかげ。
いつの間にか白キツネが椅子の縁にいて、後ろに倒れた男の子は白キツネに背中がぶつかっただけだった。そのまますべって長椅子の上に座ったようになる。
男性が慌てて男の子を抱き上げ、無事でよかったと男の子の頭を撫でる。しばらくして床に降ろされた男の子は、走って行って今度は女性の服の裾に飛びつく。甘えるように女性を見上げる……。
これは何? 一体、何の光景?
「聖堂ネズミ!」
フェリックス様の声がした。
今まで見ていた風景がすっと消える。あれ、私、今まで何をしていたんだっけ?
世界が明るい。私は馬車の中にいる。車体から振動が伝わって来る。私の手には衣服のごわごわとした感触がある。
そうか、夢が終わったんだ。こっちが現実だ。戻って来たんだ。
私の斜め前では、険しい表情でフェリックス様がイアシントを睨みつけている。
「僕にも見えた。お前の仕業だな?」
「すまない、つい、……」
イアシントは私の肩から降りてくる。座席の上に二本足で立ってフェリックス様を見上げる。無言の圧力を受けて、彼は私に言い訳する。
「でもこれは、あんたたちの思いに呼応したせいでもあるんだ」
「?」
私が不思議に思っていると、イアシントは肩をすくめて講釈を始めた。
「俺は長らく大聖堂にいただろう? あそこは人々の祈りや願いが集まる場所で……そういった強い思念に触れ続けるうち、俺は人の思念を引き寄せて、再現して見せる能力を身に付けた」
使い魔には固有の魔力があり、イアシントはその説明をしているようだ。
「今見たのは、僕の子供の頃の記憶だ」
横からフェリックス様が言う。私は思わず彼の顔を見る。
「では、そうすると……」
今見た光景は、貴族の男性がお父上で、女中の格好の女性がお母上で、子供はフェリックス様だ。
でもどうして突然、フェリックス様の子供時代の思い出が?
「それはだな」
私の疑問にイアシントが答えようとする。
「なんでも再現できる、ってわけじゃあないんだ。まず、思念の元の持ち主が心を閉ざしている場合はだめ」
私は横目でフェリックス様の様子を窺う。イアシントの言う通りなら、彼は心を開いていることになる。
野ネズミはちょっと首を傾げながら話を続ける。
「それに人の思念は時間とともに消えゆく。消えてしまえば、やっぱりだめなんだけど、ただ、強い思いは長くとどまるし、思い出す回数が多ければそのたびに新たに命を吹き込まれて、結果として長くとどまることになるんだ。で……」
「あの時の出来事を、すごくよく覚えている」
イアシントの言葉を補うように、フェリックス様が言う。
「あれは両親の関係について、初めて、おかしいと思った瞬間だったんだ。転がり落ちる僕を止めたのが、どうして両親でなくてシャーズだったのかと、成長してからも何度も思い返した」
ご両親はお互いに気を遣って手を引いてしまい、子供のフェリックス様を助けたのは白キツネだった。……あれ?
「フェリックス様は今、『シャーズ』と、おっしゃいましたよね。あのキツネの名前もシャーズなのですか?」
「いや、シャーズは一人だけで、……あの白キツネがシャーズなんだ」
「はい?」
それは、どういうこと? 理解不能なことを聞いてしまった。
私の混乱をよそに、フェリックス様が平然と言う。
「シャーズは僕の使い魔で、キツネが彼の本性。今は人の姿をしているけれど、昔はキツネだった」
「……」
私は真っ白になった頭を働かせようと、必死に自分を励ます。頑張れ私、考えろ、考えるんだ。
ええと、つまり、元々シャーズはキツネでフェリックス様と遊んでいた。そして今のシャーズは人でフェリックス様の従者になって、馬車の馭者をしている、と……。まあ確かに、言われてみれば、という気もする。フェリックス様がこれだけ使い魔に詳しいのに、彼に使い魔がいないと思うほうが、おかしいのだ。
フェリックス様は私が何か言い出すのを待っている。それで私は、何となく、的外れな質問をしてしまう。
「人に化ける使い魔って、よくあることなんですか?」
「とても珍しいですよ。この場にシャーズと、聖堂ネズミと、人に化ける使い魔が二人も揃うなんて、本当に稀なことです。……この話は、また今度にしませんか?」
「助かります……」
本当に助かった、と思う。これ以上は私の頭が受け付けないから。
思い起こせばシャーズの挙動はどこかおかしかった。桶の水を飲んでカラスムギの粒をそのまま食べた。人並み外れて敏捷だったり、葡萄酒をぺろぺろと舐めて酔っぱらったりした。どれもこれも彼がキツネだと思えば、納得する。
私はようやく考えを整理できた。フェリックス様はにっこりと微笑む。
「それから、むやみに人の思念を引き寄せるのは、あまり勧められない」
「?」
「使い魔の作った幻影を見ている間は、あなたも相手の思い出を追体験していることになる。人の想いに同調するのは負担が大きい。それに、まだ思念の持ち主が思い出に囚われている場合には、見ているあなたまで捕まって抜け出せなくなることもある。いつでも現実に戻れると思わないで、安易に人の思念に手を出さないことです」
……これは、恐ろしいことを聞いた。もしかしたらさっきの幻影からも、あのまま戻って来ない恐れがあったかと思い、背筋が寒くなる。
私は真剣な顔をしてフェリックス様にうなずく。
「ご忠告、覚えておきます」
「そうしてください」
「それとフェリックス様にお詫び申し上げます。私、無断であなた様の過去を覗き見てしまいました」
「それは全く構わない。でも、よりによってあの時の記憶が出てくるとは、僕も驚いた。自分の中ではとっくに解決したことだと思っていたけれど……」
フェリックス様の目は少し遠くを見る。
「僕も……誰かに話してしまいたかったのかもしれない」
その事件の前後で、彼のご両親を見る目が変わった。彼の心に強く残った、象徴的な出来事だったんだ。
「おっと」
馬車が大きく傾いて揺れた。野ネズミが驚いて私の膝に飛び乗る。馬車が街道から脇道へと入ったのだ。
馬車がガタガタと揺れ始める。揺れが大きいと私の身体が飛び跳ねて、天井にぶつかりそうになる。私は頭に手をかざして上を見上げる。私の座っている前方は狭くて、頭のすぐ上に天井がある。
「レア、こちらへいらっしゃい」
「……?!」
フェリックス様が手を伸ばし、私を自分の隣に座らせる。




