第19話 正直な人
私もまた呆然として、彼と同じ疑問の言葉を繰り返す。
「どうして、……どうしてその指環をお持ちなのですか?」
「それは僕が、あなたに聞きたい」
「?」
即座の応答。迷いのない口調。いつもの冷静なフェリックス様に戻っている。彼はどこか覚悟を決めたようにも見え、それならば、と私も腹をくくる。
「僕の指環は母の遺品です。この指環を母に贈った人を、僕はずっと探していました」
彼は自分の指環についてあっさりと白状した。でもそれは、何かを言っているようで私には何の説明にもならない。それに私が考えるよりも彼が行動する方が、ずっと早い。
彼はまっすぐに私を見つめる。明確な言葉で私に問う。
「レア、あなたはヴァロン侯の愛人でしたか?」
「いいえ、違います」
いきなり核心を突かれて私の心臓は跳ね上がる。私の答えに彼は表情を変えず、独り言のようにつぶやく。
「……でしょうね。どう考えても無理がある」
彼はどこか、ほっとしたように息をつく。
「でも、否定してくれてよかった。安心しました」
「……」
それは私も同じ。聞きにくいこと聞いてくれてよかった。聞いてくれなければ、疑われたままだったから。
もはや彼は私を疑っていない。でも、彼に信用されるのは、それはそれで妙な気分。思わず聞いてしまった。
「私を信じるんですか?」
「僕はあなたが正直な人だと思った。昨日市場で、あなたは僕を試したでしょう、カラスムギを買わせて」
「あ……」
彼は私の意図を完全にお見通しだったというわけだ。さらに彼は自分の洞察を明かす。
「城下の暮らしに関心のないヴァロン侯ご夫妻が、市場での不正を、あえてよそ者の僕に明かすとは考えられない。あれは指示されたのではなく、あなたの発案だった」
確かにその通りなんだけど、ヴァロン侯の意向だなんて、私は考えもしなかった。
「不正にどう対処するか見極めようとしたあなたが、自分でも嘘をついて、なお平然としていられるわけがない。そうでしょう?」
自分じゃそんなこと、思いもしない。彼の深読みには恐れ入る。でも、こういう人に限って自分のことになると考えが及ばないものだ。
彼は疑問を口に出す。
「でもそうすると、本当にどうしてあなたはその指環を持っているんです? お城で、他にも相手を命じられるような人が……あっ」
フェリックス様はようやく、自分がその「相手」だと気づいた。
「僕か……すっかり忘れていた」
気まずそうに彼は私を見る。私はそ知らぬふりをして彼を見るけれど、でも、彼の言う事は否定しない。
フェリックス様は私と向き合う。
「あなたに申し訳ない事をした。僕は信用されなくて当然だ」
その言葉に、私は首を横に振る。彼のことを完全に疑っていたわけでも、信用していたわけでもないから。
「モリスは、私がこの指環を持っていることを、あなた様には話さなかったのですね」
彼はうなずく。
「モリスとは別の事を話したので、それについては必要ないと思ったのでしょう。でも、本当に、話してくれればよかったのに。さっきは心臓が止まるかと思うくらい驚いた」
彼は私に向かって微笑む。私も何となく微笑みを返す。
「私も驚きました。……あの、フェリックス様は二日前に質問なさったでしょう? 『お城の決まり』に反した時、領主の命令が関わっていても、城を追放されるのかどうか」
「はい。もしかして、あなたはその答えをわざわざ確認してくれたのですか?」
「何となくモリスに聞きに行って……指環はその時に彼がくれました。フェリックス様は既にご存じかと思いますが、再びお城に戻るための、恩赦の目印です」
言いながら一瞬だけ、この指環の恐ろしさを感じて身震いする。そしてモリスがこの指環を銀の箱から取り出した時のことを思い出した。
「私はその時、指環の台座がもうひとつ、空になっているのを見たんです。モリスは指環をお母上に渡していたのですね」
「それが……モリスが指環を渡した相手は母ではなく、ヴァロン侯夫人なのです」
「えっ」
お城の奥様が、指環を?
「だからモリスは知らなかったのです。僕の母が指環を持っていたことを」
私は唖然としてフェリックス様の顔を見つめる。彼の顔にも困惑が表れている。
「フェリックス」
シャーズが呼んでいる。馬車で出発する準備ができたのだ。すぐに行く、とフェリックス様がシャーズに合図を送る。
彼は私に向き直り、言う。
「今の話では訳が分からないでしょう? 順を追って話します。話しますが……これから僕が向かおうとしているのは、西の尼僧院です」
場所を聞いた途端、何かが私の心に重くのしかかった。そして彼もそれに気づいた。
「その指環を持っているあなたなら、そこが特殊な場所だと知っているのでしょう。あなたは行きたくないかもしれない。そうならば今ここで……」
「お供します」
私は彼の言葉を遮って言った。驚く彼に私は繰り返し言う。
「私もフェリックス様と一緒に参ります」
ここまで来て、引き下がるものか。このままでは終われない。これは、偶然指環を手にした私自身の問題でもある。
もし一人だったら、確かに気が進まなかったかもしれない。でも、この人が一緒なら全く不安を感じない。それどころか、この人の行く所、私も一緒にいきたいと思う。そう思う気持ちが何よりも強い。
彼の目を見て私は決意を伝える。彼も私の目を見てうなずく。
「ありがとう、レア。あなたがいてくれるのは心強い。では行きましょう」
歩き出した時、私の肩で野ネズミがキィと鳴き声を上げた。しゃべれるくせに、ただのネズミみたいなふりをしている。私たちの会話の邪魔をしないよう、気を使っているのかもしれない。
「もちろん、あなたの使い魔も一緒に」
フェリックス様が言い、イアシントと私は同時にうなずいた。
馬車の扉を開け、フェリックス様は私に先に乗るように言う。使用人は普通、後から乗る。でも、勧められた場合は、この順序にはこだわらなくていい。
私は扉の前で待つ彼に一礼し、馬車の入り口に足をかける。その時、不思議な事が起こった。
私の片手は服の裾を持ち上げている。もう片手は馬車の戸口の枠を掴んでいる……はずが、その片手がフェリックス様の手の上にある。えっ、なんで?
確かめる間もなく、身体がふわっと持ち上がる。支えられていた手が離れる。よくわからないまま私は前方へ、進行方向に背を向け座る。続いてフェリックス様が車内後方に座り、私たちは斜向かいで向き合った。
扉が閉まる。馬車が走り出す。
◇◇◇
馬車が城下町を抜けて街道までやってくると、フェリックス様が言った。
「ヴァロン城から西の尼僧院に行くには、まず街道を南へ、途中から山道に入って西へ進みます。ルメール領に帰る場合も、西に分かれるまでは同じ道です」
「ええ……」
私は注意深くフェリックス様の次の言葉を待つ。何気ないふりをしつつ、いきなり本題に切り込むのがこの人のやり方だからだ。
「今から二十年以上前、結婚したばかりの僕の両親も、この道を通ってルメール城に帰ったはずです。その時僕はもう母のお腹の中にいて、この道を通っている」
「……?」
やっぱり来た。しかも重要な情報が二つも。数日前、城の礼拝堂での結婚式を、彼が熱心に見ていたことを思い出す。
「ご両親はもしかして、ヴァロン城で結婚式を挙げられたのですか?」
「そうです。母はヴァロン城で女中をしていました。先に妊娠していたので、とにかく急いで結婚したらしい」
ヴァロン侯は、テオドール様が女中と結婚した、と言っては蔑んでいた。でもその女中というのがこの城の女中だったとは、驚きだ。
女中と貴族の結婚だなんて、まるでおとぎ話のよう。でも、フェリックス様の考えは違った。
「僕は両親の結婚証明書を見たとき、母のサインがなく、代わりに染みのようなものがあるだけだったので、母は嫌々結婚させられたのだと思っていました。例えば自分のあふれる涙で印をつけたとか」
「それはまた……」
吟遊詩人が歌う悲恋の詩みたいな発想だ。この人がそんなことを想像していたなんて。
私が目を丸くすると、フェリックス様は微笑した。
「でもそれは僕の勘違い。文字の書けない代わりに聖水で印をつけるのだと、あなたが教えてくれたでしょう?」
「おっしゃる通りです……」
続けて、フェリックス様はさりげなく彼の出生の秘密を暴露する。
「それに僕の両親の夫婦生活は妙だった。夫婦の寝室はいつも別、僕は父が母の身体に触れるのを見た事がないし、母もそうならないよう慎重に避けていた。実父が別にいる、と気づくのに、時間はかからなかった」
フェリックス様のお父上が、実の父親ではない? 次々と明かされる新事実に私の頭はどうにかなりそう。
「まあよくある話だし、血のつながりがあるかないかは大したことじゃありません」
フェリックス様は淡々と語る。彼はお父上の子でないという事実を受け入れている。その事実があっても彼はお父上を敬愛し、お母上を大切に思っていた。
「前にも話したかもしれませんが、母は父から贈られた美しい衣装を身に着けず、装身具の類も手に取ることはありませんでした」
その話は昨日、市場を訪れた時に聞いた気がする。
「でも、あの指環だけは違った」
いよいよこの話になった。彼は少し下を向き、私は少し緊張する。
「母はその指環を入れた箱を手元に置き、大事にしていました。父が贈った物ではなかった。なので僕は、その指環の贈り主こそ、母が本当に愛した相手だったのだと、ずっとそう思い込んできました」
私はフェリックス様を見る。彼と目が合う。
違う。この指環は決して、愛しい相手に贈る物なんかじゃない。




