第18話 同じ指環
私は肩のネズミを落とさないよう、イアシントを手で押さえながら立ち上がる。向こうを見ると、少し前までいたはずのシャーズの姿はなかった。
イアシントは言う。
「そろそろ、限界のはずなんだ」
「何が?」
「あいつが。あんたが俺にそそのかされて、戻って来ないんじゃないかと、気を揉んでいる頃だと思うんだ」
あいつ、というのはフェリックス様のことだ。イアシントもフェリックス様も、お互いを名前で呼ばないから。
「私はそうは思わないけど……逆に、私の戻りを待たずに出発している可能性の方が、高いんじゃない?」
「あんたは、あいつのことを分かってないな」
イアシントはそう言うと、首の後ろをつたって私のもう一方の肩に移動した。
「賭けてもいい。もし違っていたら、俺はあんたの言う事を何でも聞いてやる」
「何でもって、それはすごいけど、えーと、……使い魔が付いている人のことは、何て言うの?」
「主、主人、あるいは使い主」
「そう、それだ。そもそも使い魔は、使い主の言う事を聞くものじゃないの?」
本気で頼みたいことがあるわけではないけど、何となく思っていたことを聞いてみた。
「基本はそれであってる。期待されて応えることは両者の絆をより深めるんだ。でも、使い魔だって、自分の意に反することはやりたくないものさ」
「例えば?」
「嘘をつくこと。危害を加えること。この世界の安定に反する行為だから、使い魔の存在自体を危うくする」
「……」
軽い気持ちで聞いたのに、深遠な答えが返って来た。思わず立ち止まってイアシントの表情をうかがう。ネズミの目は曇りなく大きく開かれている。
私は言う。
「そういうことは頼まないと思う。それに別に、特に頼むことがあるわけでもないし」
「それはつまらない関係だな。何も考えてない証拠だ。考えろ、レア、頭を使うんだ」
私とあなたは今さっき出会ったばかりの関係。いきなりそんなことを言われてもねえ。
身近な所で、私はお城の使い魔たちのことを思い浮かべる。
ジャンヌ様の鳩のように伝言を頼むのはどうだろう? ……だめだ、伝える相手がいない。お嬢様の鳩はリュシアン王子への伝言を運び、返事を持って帰って来る。けれども私には遠くにも近くにも恋人がいるわけでなし。
モリスのリスのように物を運んで? ……何かを交換する友人がいるわけでなし。
奥様のカラスのように監視を? 旦那様のトカゲのように物を取ってこいと? ……だめだめ、私には全然必要がない。
考えても何も思いつかなかった。そう思っていると、イアシントの方が先に折れた。
「いきなりというのは無理か。じゃあ、俺があんたを念入りに見張っていて、ここぞというときに助けてやる。困った時の友は何とやらっていうだろう?」
「私の味方をしてくれるっていうの?」
「ただの味方じゃなくて、どんな時にも頼れる友人だ」
「そりゃ、どうも……」
私はこの時、イアシントが言い直したのを気にも留めず、ただ聞き流した。
私が気のない返事をすると、イアシントは軽い冗談のつもりで言う。
「例えばだな、嫌いな男に言い寄られて困っていたら、すぐに助けてやる」
「そんなことは起こらないと思うけど」
「それもそうだった。確かに……うん、全くその必要はなさそうだ」
「……悪かったわね」
男っ気のない私だ。でも、あまりにも念入りに同意されると、さすがに腹が立った。
私が気を悪くしたのに気づき、イアシントが慌てて言い換えをする。
「いや、違う違う……そっちの意味で言ったんじゃなくてだな、その点に関しては俺の出番がないというか、もっと適任がいるというか……ああ、だめだ、俺からはこれ以上は言えない」
自分から言い出しておいて、自分の発言で自分の首を絞め、ドツボにはまっているおかしなネズミ。きっと根は真面目な性格なんだ。
おしゃべりなイアシントが口を閉ざすと、途端に辺りは静かになる。風の音が聞こえてきた。
◇◇◇
馬車まで戻ってみると、イアシントの予想も私の予想も、どちらも当たらなかったことが分かった。
シャーズが馬車の準備をしている横で、フェリックス様は楽しそうに馬と遊んでいる。馬の鼻や口を撫でてみたり、耳を触って伏せてみたりと、ずい分仲良しの様子。遊びをやめようとすると馬は元気よく頭を動かし、フェリックス様の肩や背中に首を擦り付ける。もっと、と続きを要求しているようだ。
しかも彼が遊んでいる相手は私の馬のファラダ。大聖堂への道中、気難しい馬だという話をしたばかりなのに。どう見てもお客様に懐き過ぎでしょう?
イアシントが耳元で言う。
「さっきの賭け話はなかったことにしよう」
「うん、そうしよう」
私もそれに異論ない。
私はファラダにあきれて、しばらくの間、目の前の光景を見つめる。するとフェリックス様も私たちに気付いて微笑む。
「早かったですね、レア、お帰りなさい」
「お待たせして申し訳ありません」
私は腰をかがめて丁重に挨拶をし、肩の上の野ネズミもお辞儀をしたようだ。するとファラダもそれにつられて頭を下げ、上げた時にはしゃきっとした顔で前方を見ている。やれやれ、この馬、人によって態度を変え過ぎだ。
フェリックス様は私と肩の上の野ネズミとを順番に見る。
「聖堂ネズミは? どうすることにしました?」
「私と一緒に行くことにしました」
私が横目でイアシントを見ると、野ネズミは両前脚を突き上げ、「やったぜ」と言わんばかり、喜びを表している。フェリックス様もうなずいてくれた。
「それはネズミも喜んだでしょう。長い間待ってようやくあなたが現れた。百年の孤独に耐えただけの価値があった」
「……」
本当は私は、このおしゃべりネズミは私より、フェリックス様の使い魔になった方が、幸せなんじゃないかと思っていたんだ。フェリックス様なら使い魔のことをよく理解しているし、イアシントの能力も使いこなせたに違いないから。
でも、喜んでくれたイアシントを見て、フェリックス様の言うのを聞いて、それを言い出さなくてよかったと心から思った。
フェリックス様が聞いて、私が答える。この一瞬がイアシントにとって最も緊張した瞬間だったに違いない。自分の命運が定まって、肩の上で彼が安堵している様子が伝わってきた。そしてここで事件が起きる。
イアシントは安心したあまり、脚の力が抜ける。うっかり私の肩の上から落っこちる。落ちながら必死につかんだマントの結び紐が、彼に引っかかって絡まってしまった。
「イアシント! ちょっと待ってて……」
私はマントの首元をゆるめ、紐とネズミをほどきにかかる。その時、私の首から思わぬ物まで外れ、それは石ころのように地面に転がった。
「落ちましたよ」
何気なくそれを手にしたフェリックス様の動作と表情が凍りつく。その瞬間、私は何を落としたかに気づいた。
しまった。最も知られたくない人に、あれを見られてしまった。
片手には外したマントを持ち、肩の上には小さなネズミ。私もまた、一歩も動けない。
立ち尽くして顔を上げようとしないフェリックス様。重苦しい沈黙があたりを支配する。時たま吹き抜ける風さえ、私たちの間を隔てているように感じる。
ようやく顔を上げた時、見せた彼の表情が私を打ちのめす。彼はかすれる声をどうにか絞り出して私に聞く。
「あなたの……指環?」
「そうです、私のです……」
「どうして……、どうしてあなたも……この指環を持っているのですか?」
聞く声も答える声も、震えている。私の頭の中で、彼の言った言葉の、ただ音だけが繰り返し聞こえる。
ドウシテアナタモ、コノユビワヲ、ドウシテ……、ドウシテ……。
それならば私もあなた様に聞きたい。どうして、どうしてそんなにまで、深く打ちのめされて、顔色を失っているのですか?
あなた様が手にしているのは、『領主の赦し』という曰く付きのものではあるけれど、所詮、ただの指環にすぎないのに。女中の私が持つにしては高価過ぎる、不釣り合いな指環だというだけなのに。
こんな指環を持たされているくらいだから、実は私は領主様と通じていて、味方のふりをしてあなた様をだましていたとでも? 領主様の暴力から私を守ってくれたあなた様を、陰では馬鹿にして嘲笑っていたとでも?
違うのだ。決してそんなことはないんだ。でも、彼がそう思っても当然のことなんだ。もう何を言っても遅い……。
彼の表情につられて私も下を向く。悲しくて泣き出しそうだ。
「あなたの大事な指環です」
いつの間にか彼が私の手を取っている。彼は私の手に拾った指環をにぎらせる。はっとして彼を見ると、彼は意を決したように自分の懐の守り袋を探る。その中から何かを取り出して指先でつまむ。それは彼の手には、とても小さな物。
「実は僕も持っています。あなたと同じ指環を」
そう言ってフェリックス様は、持っていた指環を私に見せる。私が落としたのにそっくりの、もう一つの指環……!




