第16話 大聖堂へ
「別に、損得だけが大事とは思いませんが、そういうことならば……」
彼は思案顔になり、慎重に言葉を選ぶ。
「モリスは僕の知りたかったことに、できる限り答えてくれました。レア、あなたのことも、聞きました」
「私?」
「例えば、この馬車を引いているあなたの馬は、本来はヴァロン侯夫人の馬だったそうですね」
私の馬の、ファラダのことだ。私はうなずいて話を続ける。
「ファラダは気難しい馬なんです。でもなぜか私とは相性がよくて、それで奥様が気前よく、私の馬にしてよいと言ってくださったのです。シャーズとも、すぐに仲良くなったみたいですけど」
「確かに、シャーズも、動物たちには好かれる」
「そのようです」
話しながら疑念が湧き起こる。フェリックス様はモリスから、馬の話だけを聞きたかったのではないはずだ。
「それで、フェリックス様の疑問に、モリスは答えてくれたのですか?」
「いいえ。残念ながら、モリスでも知らないことだった。でも彼は、僕に別の手がかりをくれました」
「手がかりを?」
「そう。だから、今日は大聖堂の後で、モリスの教えてくれた場所を訪ねるつもりです」
「かしこまりました」
私は神妙な顔をしてうなずく。
モリスはフェリックス様に手がかりを与えた。ということは、それに先立って、この人は城に来た本当の目的をモリスに話したに違いない。その目的とはもちろん、お嬢様と結婚することなんかじゃない。
彼の目的を知った上で、モリスは私に言った。フェリックス様の味方になれ、と。私、本来はジャンヌ様の女中なのに。
私は思わずフェリックス様をにらみつける。彼はにらまれる理由など、思いもよらないといった風。
「何か?」
「お嬢様のことを考えていました」
「あなたはジャンヌの女中だから、当然ですね」
この人にそれを言われると無性に腹が立った。
「フェリックス様に伺います」
「?」
彼は怪訝な顔をして、私の方に顔だけ向ける。私は語気強く彼に詰め寄る。
「もし、あなた様と結婚したら、」
「え……」
彼はびっくりしたように私を見つめる。そんなに驚くこと? そんな反応をされると、かえって私の方が驚いてしまう。
私は質問の続きを言う。
「ジャンヌ様は幸せになれるとお思いですか?」
彼は一瞬苦笑い。それが困惑顔になり、私を見ては微笑む。ほんのわずかの間に、こんなに感情豊かな人だったのかと思わせるくらい表情が変わった。そしていつもの不敵な微笑に戻り、彼は質問に答えてくれる。
「とても重要なことです。でも、そんな分かり切ったことに、答える必要はないでしょう?」
「……」
完璧にはぐらかされた。でも、明言しなかったのが彼の答えだと思った。はっきり言うのは都合が悪いのだ。
彼はそれきり口を閉ざし、私は彼の横顔を見つめる。美しい横顔。その顔の下では何を考えているのだろう。
私は彼の思索の邪魔をしないよう、馬車の中で静かに座り直す。
……あれ? この香り。私は気づく。ヴァロン侯のご家族と、大事なお客様にもお出しするあの香水の香りだ。
昨日のフェリックス様はお使いにならなかったはず。でも今は、フェリックス様から、確かにあの香水の香りがした。
◇◇◇
大聖堂に着くと出迎えに二人の僧侶が現れた。僧侶たちはフェリックス様の姿を見るなりはっとしたように頭を下げる。
「お越しを……お待ち申し上げておりました……」
そういえば、フェリックス様には立っているだけで辺りを払うような存在感があるのだった。遠くから見るとよく分かる。
「どうぞ、こちらへ……」
僧侶二人はフェリックス様から渡された例の許可状を見ようともしない。ただ彼を先導して歩き始める。シャーズは馬車に残るというので、私だけが後に従って歩く。
大聖堂の最深部にある祭壇。祭壇の後ろに下へと降りる階段があり、それが地下廟へと続く。祭壇の向こうには高い柵がある。
私が進むことができたのは祭壇の前までだ。そこから先は見送るしかない。
先導していた僧侶が柵の鍵を開けた。フェリックス様と僧侶たちが柵の向こう側に入り、再び柵が施錠される。柵を閉める音が必要以上に響く気がする。階段を歩く音がして彼と僧侶たちの姿が見えなくなる。
彼は行ってしまった。あっという間に。
あの人のことだから、首尾よくやって、すぐに帰ってくる。そう思った。きっとそう。……。お嬢様を見送ったときだって、こんな気持ちにならなかったのに。
どうせ待つなら明るい場所で。そう思うと私の足は回廊へ向かった。
回廊はぐるりと中庭を取り囲んでいて、中庭から見える空の明るさがほっとする。草むらに青い色の花が群生し、野ネズミが一匹、前足で花をつかんで食べていた。お城によく出る灰色のネズミと違って、姿も仕草もずいぶんと可愛らしい。
少し離れた場所にフードを目深にかぶった僧侶の姿が見える。僧侶はこちらへ歩いてくる。すれ違う時にその人の邪魔をしないよう、私は回廊の端に寄る。
突如、僧侶は背中を打たれたように前方へよろめき、そのまま両手をついて倒れる。そのはずみで何かが回廊を転がって、私の足もとで止まる。金色に輝く楕円形のメダリオン、これは聖印?
花を食べていたはずの野ネズミが草むらから飛び出してくる。野ネズミは私の足元でキィーと警告の鳴き声を上げた。
倒れた僧侶が顔だけを上げ、前方を睨みつける。呪詛の言葉を吐いている。フードの奥にある僧侶の目が赤く光ったような気がした。
これは……怪物だ。こういうのを怪物というのだ。全身が震える。私は後ろ足に数歩下がる。
野ネズミは回廊の柱の台石に駆け上がり、僧侶に向かって再び威嚇するように鳴く。
倒れている僧侶の僧服の裾がいったん盛り上がる。そこから、灰色のネズミが現れる。ネズミは姿が見えたかと思うと、床に吸い込まれるように姿を消す。また次のネズミが服の下から出て来て、同じように姿がなくなる。
次々とネズミが現れては消える。ネズミの出る様子がまるで、袋の底が破れてこぼれる豆みたいだ。おぞましい光景のはずなのにそんな緊張感のないことを思いつく。
ネズミが出て消えるたび僧侶の服のふくらみが減り、僧侶の姿自体、小さくなっていく。やがてネズミが全く出なくなる。回廊の上にはただの平たい布が落ちている。中身が抜けて空になった僧服。さっきまでそこにいた僧侶の姿も残っていない。
終わった、と思った。何かが終わったのだ。思わず身震いする。
と、私の後方から来た誰かが、すごい速さで隣をすり抜けていく。あれはシャーズだ。馬車に残ったはずのシャーズがここにいる。
彼は回廊の上に落ちている僧服を拾う。力を込めてそれで床を打ちつける。すると僧服は燃え尽きた灰のように黒く変わり、粉々になって宙を舞う。それが降って床に落ちる頃には、その灰も雪が溶けるように消えてしまう。
「シャーズ……」
私が呼ぶと彼は振り返る。
「いつからそこにいたの?」
「ずっといた」
短く答え、彼は私の足元を凝視する。シャーズの視線の先にはさっきの野ネズミがいる。野ネズミは必死になって石柱にしがみついている。風もないのに何かに吹かれ、それに流されまいと抵抗しているようだった。
「ちくしょう、誰だこんな乱暴なことをするのは! ネズミはネズミでも、俺は違うっていうのに……」
ん? 野ネズミがしゃべっている? まさか。私は自分の目と耳を疑う。
「お、あんた、もしかして俺の声が聞こえてるのか? 頼む、俺の名前を呼んでくれないか」
「は? 名前?」
「そうだ」
何と驚いた。野ネズミと会話してしまった。見れば野ネズミは長い尻尾の先が消えかかっているような……これも気のせい?
野ネズミは私に訴えかける。その小さな口が大きく動き、一音一音、私に伝えようとする。あ、分かった。野ネズミの言っていることが分かった。
「イアシント!」
それがこの野ネズミの名前だ。私がその名前を口にしたとたん、その場で何かがはじけ飛んだような気がした。
「あなたの名前、イアシントね?」
「そうだ、やった、助かった!」
野ネズミはぴょんと飛び跳ねて喜ぶ。見えない何かから解放されたようだし、消えかかっていた尻尾もちゃんとある。よく分からないけれど、よかった。
野ネズミは私を見上げて短い前脚を差し出す。私はこの仕草につられて野ネズミと握手してしまう。一体これは、どういう事態?
野ネズミの身体が持ち上がった。シャーズが野ネズミの尻尾を持って吊り上げたのだ。
シャーズは自分の顔の前まで野ネズミを持ち上げ、宙づりになったイアシントをじろじろと見る。鼻を近づけてくんくんと匂いを確かめる。
「や、やめてくれ……俺を食うな」
イアシントは手足をばたつかせて抵抗する。ネズミなのに、まるで人みたいにイアシントが全身で冷や汗をかいているのが分かる。シャーズがイアシントを見つめたまま、かっと大きく口を開ける。本当にネズミを飲み込んでしまうのではないかと思って私は大声を出す。
「シャーズ!」
シャーズは開けた口を閉じる。イアシントを床で放すと、一言だけ言う。
「邪悪ではない」
「そうだとも、そうだとも」
野ネズミは大急ぎで走ってきて私の肩に上り、耳元でしゃべる。
「あんたの名前、何ていうんだ?」
「レア、だけど……」
「レア! いい名前じゃないか。あんたと俺は名前を呼び合った。この意味、分かっただろう?」
いや、全然分からない。




