第14話 手を洗う
「あなたは思い違いをしている。私が来る前から、あなたの行く末は決まっていた」
フェリックス様の声が落ち着きを取り戻している。よかった。こういう争いは、怒りに我を忘れると負けだから。
「この城は先祖代々の亡霊たちの、怨嗟の声に満ちている。私にも彼らの呼び声が聞こえる。けれど、亡霊たちが次に求めるのはあなたなのだ、ヴァロン侯」
「どこまでも気に食わない奴め。いいか、その時にはお前も道連れだ。お前一人、この呪われた血から逃れられると思うなよ」
これが旦那様の捨て台詞だった。
旦那様はフェリックス様に背を向ける。その後ろ姿が壁を曲がり、見えなくなる。
フェリックス様は私たちの隠れている柱まで歩いて来た。彼は私を見ると言った。
「大変でしたね」
それはあなた様のことでしょう、フェリックス様。さっきまでヴァロン侯と激しく言い争い、旦那様の暴言からご両親の名誉を守ろうと戦った。彼の方こそ、全くの無傷で済んだとは思わないのに。
それに、彼は私を逃がしてくれたんだ。ヴァロン侯に従うのを拒否して。それがなければヴァロン侯と良好な関係を保って話し合いを続けていたかもしれないのに、その機会は永遠に失われてしまった。
何となく沈んだ気持ちが言葉に出る。
「フェリックス様の方こそ、お話はお済みなのですか……」
「あんな卑劣な男とは、もう関わりたくない」
「……仲直りの可能性は……」
「ない。和解の条件としてあなたを差し出せと?! 冗談じゃない」
「……」
返す言葉に困って彼を見ると、目が合って彼は微笑んだ。
「失礼、少し気が立っていて。それよりまず、あなたの手当てをしないと」
彼は私の両手に触れる。
「手当て?……あら」
私の手には旦那様につかまれた時の指の跡が赤くくっきりと残っていた。見た目に痛々しい。
「シャーズは水を。あなたは僕と部屋に戻りましょう」
シャーズがうなずいて炊事場へ向かう。私がまだ運んでいない水をシャーズが代わって取りにいってくれるらしい。
フェリックス様は私の返事を待たずに歩きだす。私は慌てて追いかける。
「お待ちください。このくらい、放っておいても、すぐに治りますから、結構です。本当に、大丈夫ですから……」
なかなか追いつかない。と思っていたら、突然止まって私を振り返る。
「あまり、そういう聞き分けのない事を言うと……」
彼は最後まで言わず、じーっと私を見る。ただひたすら、私を見る。……私は彼に勝てない。
「行きます、あの、おっしゃる通りにしますから、あまり大袈裟にはなさいませんよう」
私の答えにフェリックス様はにっこりと笑う。そして私の背中を押す仕草をする。どうやら隣を並んで歩けということらしい。なんて恐れ多い。
道すがら彼は話してくれた。私が部屋を出て行った後で、ネズミの集まる気配を感じたそうだ。それでシャーズと二人、その場に向かったけれど、シャーズの方が足が速くて、フェリックス様の到着が後になった。ネズミたちを追い払ったのはシャーズが投げた小石だという。
「でもあなたも、水を取りに行ったにしては、遠回りでは? 何かありましたか?」
「トカゲを見たのです。それを追いかけて、寄り道してしまったのかもしれません」
あの大トカゲは旦那様の使い魔だったのだ。魔法の短剣を盗もうとした大トカゲ。
◇◇◇
西の客間には先にシャーズが戻っていた。水の桶とたらい、ひしゃくが用意されている。
シャーズは私の顔を見るなり部屋を出て行ってしまった。シャーズがいなくなってしまうのは、何とも心細い。
「座って。手を出して」
私はおとなしく彼の言う通りにする。彼はひしゃくで水をすくって、私の赤くなった手首にかける。それを何度も繰り返す。水が冷たい。
お客様のお世話をするはずの女中が、逆にお客様に手を洗わせているなんて、とても人に見せられない。私は手を引っ込めようとしたが、彼が私の手を動かないように押さえた。
そうしているうちに思いついた。手を洗うのは悪い物と手を切るためのおまじないなんだ。私の手を洗いながら彼もまたそうしようとしている。そう思うと、彼の気の済むまで水を使わせておこうという気になった。
しばらくしてから彼はひしゃくを横に置いた。それでも私の手を押さえたままじっと見つめている。ようやく納得したように言った。
「もう大丈夫」
彼は私の手を離す。なおも気になることがあるらしく、私の手を、動きを、目で追っている。
私は解放された手をほっとしてながめる。赤みはすっかり引いていたけど、それでもつかまれていた時の感触が残っている気がする。私は彼の見ている前で、つかまれていた方の手首をもう一方の手で撫でさする。その瞬間。
「あっ」
「え?」
フェリックス様が大声を出したので、つられて私も声を上げる。
彼は大きく目を見開いて私を見ている。何かを見つけてものすごく驚いた表情。
「どうなさったんですか?」
「ようやく分かった、……そういうことだったんだ」
彼は呆然とつぶやき、力なく私の肩に抱きつく。
「……大丈夫ですか?」
「何でもないんです」
嘘だ。何でもないはずがない。何かすごく深刻なことに思い当たったんだ。
彼が少し頭を下げ、その髪が私の頬に触れる。
「フェリックス」
シャーズが帰って来た。シャーズは彼の主人の名前を呼ぶ。敬称も何もなく、ただ彼の名前を。
「フェリックス」
二回名前を呼ばれて、フェリックス様は私の肩に頭を乗せたまま答える。
「どうした、シャーズ?」
「彼女の頭」
頭? それは何の事?
フェリックス様は私の肩から頭を離す。シャーズの言葉はいつも短い。意味を探るため、私たちは無言で顔を見合わせる。
あっ。私は自分の頭をおさえる。そこで初めて自分の髪がむき出しになっていることに気づいた。急いでシャーズの元に駆け寄る。
「私の帽子。ありがとう」
彼が手に持っていた布きれを私は受けとる。水を取りに行こうと部屋を出た後のことだと思う。私は自分の帽子をどこかで落とした。シャーズは気付いて、探してくれたのだ。
帽子といっても、ただの布を頭に巻き付けただけのもの。私は頭に布を巻いて結び目を作り、髪を頭巾の中にしまう。その様子をフェリックス様は感心したように見ている。さっきまでの驚き動揺した様子はすっかり見えない。
「この城の女中はみな帽子をかぶっていますね。それもお城の決まりですか?」
「決まりではないのですが、何となく、仲間内で暗黙の了解みたいになっていて」
そういえば、この人は女中の服の色についても、決まりがあるのか、気にしていたっけ。
「フェリックス様はお城の決まりに興味がおありですか?」
「そうですね、僕の知らない世界だから、知りたいと思いますね。……あなたのことも」
そんなに言うならと私は自分の頭を指して説明する。
「結び方に意味があることもあって、とくにお祭りのときなんかですね」
「面白いですね。どんなことを?」
私は額の左右で結び目を作って実演して見せた。
「自分にすでに恋人がいれば結び目をこんな風に、逆に募集中だったらこっち、とか。無駄な骨折りを防ぐ工夫なのかもしれません」
他の結び方だとまた別の意味がある。使用人同士で助け合うための秘密の暗号だったり。でもそれは領主の立場にあるフェリックス様に言うことではないと思って私は黙っていた。
彼は尋ねる。
「帽子をかぶっていない場合には?」
「ええと……」
帽子をかぶっているのが常だから、もしかぶっていない人を見れば、羽目を外して遊んできた後だな、と思う。帽子を脱いで、そのまま忘れてきちゃうくらいに。つまり、さっきの私がそう。……。
頭に何もかぶらず、この人と一緒に客間まで戻ってきた。これはどういう状況だったのか、彼にも説明した方がいいんだろうか。戻ってくる所を誰かに見られていないといいんだけど。
私が言うべきか否か考えていると、代わりにフェリックス様が言った。
「そういえばさっき、ここに戻ってくる途中で、お城の女中の皆さんとすれ違ったのですが……」
え。気づかなかった。それはいつ?
「ちょうどあなたが聞き分けのない事を言い出した時ですね、あなたの後ろ側だったので、あなたは気づかなかったかもしれません」
それで?
「何かを冷やかされた気がしたので、無言で『それはどうも』と返しておきました」
私は思わずフェリックス様をにらみつける。
「僕には何のことだかわからず……、いけなかったですか?」
「いいえ……あなた様は悪くありません……」
フェリックス様は明らかに面白がっている。彼は女中たちのほのめかしが何のことだかわかっていて、わざと火に油を注ぐような真似をしたんだ。
……この人の心配なんか、するんじゃなかった。私はふてくされて横を向く。すると一匹の小動物が部屋に来ていることに気づく。
モリスの使い魔のリスじゃないか。ヴァロン侯と決裂したばかりのお客様に、何かご用でも?
「明日の話ですが」
フェリックス様の言葉に私は姿勢を正す。
「明日は大聖堂を訪ねることになると思います。そのつもりであなたも支度を」
「かしこまりました」
「今日の仕事はこれで終わりでいいですよ。では……」
彼は私の目を見てゆっくりと言う。
「おやすみ、レア」
私の名前を呼ばれた。もう忘れたのだとばかり思っていたけど、覚えていてくれたんだ。




