第13話 父と子と
彼の目はとても優しい目。例えて言うなれば、それは良いもの、美しいもの、大切なものを見つめる目。
目の前にあるものを見ているだけで幸せになるような、逆にその目を見つめ返すだけで幸せな気持ちになれるような、だから今私も、笑顔で彼に微笑み返している。笑顔で……、って、ん?
うわっ、私、フェリックス様につられて同じ表情をしているんだ。これはまずい。
私は慌てて渋い顔を作る。そして考える。
フェリックス様が微笑んでいるのは、私に? 違う。彼が見ているのは……、私の隣で寝ている人だ。シャーズはフェリックス様の身内だから。
私は寝ているシャーズの横顔を見る。透き通るような白い肌。灰色の髪。切れ長の目にまつげが長い。小さな頭の割に大きな耳は、顔の横に張りだすように付いていて……その耳が今、ぴくりと動いた気がする。もう一度。
気のせいじゃなかった。シャーズは目を大きく開く。そして勢いよく立ち上がる。フェリックス様が「彼はすぐに起きる」って言っていたけれど、本当にすぐだった。
「おはよう、シャーズ」
フェリックス様はゆっくりとテーブルから自分の腕を離す。シャーズはうなずき、何事もなかったかのように部屋の隅へ行く。そこで空っぽの水桶と水差しとを見つけ、がっかりしたような顔になる。それを見て、私の女中の本能が反応した。
「水を持ってまいります」
そう言って私は勢いよく部屋を飛び出す。妙なお客様の話し相手をするより、使い走りをする方が私の性に合っている。
◇◇◇
この時間になると大多数の使用人たちは仕事を終えた後。城内を歩く人の姿はほとんどない。
炊事場に向かう途中、足もとをネズミが走り抜けていった。いつも以上に今日はびっくりする。ネズミ使いの話なんか聞いていたせいだ。
続いて別の生き物に出くわす。フェリックス様のお部屋で見かけた、あのトカゲだ。廊下を歩くトカゲの後方から何かが投げられ、トカゲはそれに飛びつく。干し肉のようなものを食べている。
人影が見えて私は思わず壁の陰に隠れる。トカゲに干し肉を投げたのは旦那様だった。旦那様はトカゲを残して歩き去る。向かう方向は……確か領主様の仕事部屋だ。私たちは入ることを許されていない。
何だか異様な気配を感じる。いつのまにか、灰色のネズミたちが床の上に集まってきている。
ネズミの群れは狙いを定め、一斉にトカゲめがけて飛び掛かる。トカゲは間一髪でそれを避けて壁に逃れる。そのままネズミたちに追い詰められ、城壁の向こう側に姿を消す。
トカゲの姿がなくなり、ネズミたちは揃って行進をはじめる。その先には旦那様がいる。旦那様はまだネズミに気づいていない。
先頭のネズミが追いつき、旦那様の足元に回り込む。旦那様が足を止めたところでネズミたちは膝に、胸に、顔に向かって飛び掛かる。
「旦那様!」
私は思わず叫ぶ。ひゅっと風を切り裂く音がしてネズミの群れに中心に何かが飛んでくる。その瞬間、群れていたネズミたちの姿が散り散りになる。そして壁に吸い込まれるようにして消えた。旦那様はその場にうずくまる。
私は駆け寄り、膝を折って下から旦那様のお顔を拝見する。
「ご無事ですか。今、人を呼んで参ります……」
「呼ぶな!」
「……!」
恐ろしい力で手を掴まれた。
旦那様は私の手を掴んだまま立ち上がる。それにならって私も立ち上がる。旦那様はつかんだ手首をさらに締め付けてくる。
「誰も呼んではならん……誰だ、お前は」
「女中です」
「女中だと? お前の主人は誰だ?」
「ジャンヌ様です」
「たわけ。女中たちは全て城のものだ、お前たちの主人はすべて領主の私なのだ、間違えるな」
「……」
それが正解だったのか。私は答えを間違えてしまった。
「思い出したぞ、お前、フェリックスのところに通っている女中だな。おい、お前の主人は誰だ、フェリックスか、それとも私か?」
「それはもちろん……」
今度こそ正解には自信がある。でも、言えなかった。答える間もなくつかまれた手を引っ張られたせいだ。
私は旦那様の近くまで引きずられて、顔をじっと見られた。
「その程度の顔で、どうやってあの男をたぶらかした」
私の顔は特段美しいこともない。それは認めるけど、たぶらかしたわけじゃない。だって、とても思い通りになる相手じゃないし。
「あの男はお前に何をした、言え、言わなければ……」
何もしていない。旦那様が期待しているようなことは何もない。でも、そう言ったところで信じてくれるわけもない。
それにしても、自分が危機的な状況にあるというのに、かえって余計に頭が回る。でもこの場から逃れる方法が思いつかない。
旦那様に引きずられる。どこかへ連れていかれそうになる。この先にあるのは人の来ない仕事部屋……非常によろしくない気がする。
突然、つかまれていた手首が放される。勢い余って転びそうになる。旦那様は床に手を付き、胸のあたりを抑えて苦しそうにしている。さっきネズミたちが襲いかかった部分だ。
どうしよう、どうしよう。とりあえず逃げて、……そうだ、とにかく人を呼びに行こう。
「待て……」
走り出した私の後ろで旦那様の声がする。かなり怖い。
そしてこんな時に限って、何かにつまずく。足がもつれて身体が大きく前に倒れる。今度こそ転んだ気がしたけど、なぜか人の胸にぶつかってそうならなかった。私がぶつかってしまった人は親切にも私を助け起こしてくれる。こんな場所に、一体誰?
「すみません……」
私はその人の顔を見てさらに驚く。信じられない。
「フェリックス様……、どうしてこんな所へ……」
そう言っている間にも背後で足音がする。旦那様の近づいてくる気配を感じる。
前方にフェリックス様、後方に旦那様。これではどこへも行けない。もうだめだ。
「ひっ」
フェリックス様が私の肩に手を置き、私は思わず声を上げる。彼と一瞬目が合う。彼は素早く私と旦那様とを見比べる。そして意を決したようだ。彼は私の腰をしっかりと抱き寄せ、旦那様と向き合う。
「その女をこちらへ渡せ」
少し離れた場所から旦那様が言う。
「……」
フェリックス様は何も答えず、動かない。彼は状況を見極めようとしているんだ、おそらく。
頼むから、私を旦那様に渡さないで。そう思って私は彼の衣服に触れる。すると彼は少しだけ強く、私の腰を抱く手に力を込める。
旦那様はフェリックス様の前まで来ると足を止めた。
「君か。来ると思っていたよ。君は私と話がしたいのじゃないか? そう言っていたな。今なら奥方もいないし、話をしようじゃないか、男同士の話を……」
「……」
「私は君の知りたいことを教えてやれる。君に関わる大事な話だ。今を逃せばその時は二度と来ないぞ。よく考えるんだ」
「……」
旦那様は相手に答えを促しているようでそうでない。一方的にしゃべりすぎていて、口を差し挟む暇がまるでないのだ。
「その前にやることをやってしまおう。その女はもう用済みだ。こちらへ来るように言え。その女、君の言う事なら聞くのだろう?」
ようやくフェリックス様が発言した。それは反論だった。
「彼女は誰の思い通りにもなりませんよ」
彼は私の身体を押して自分の後ろに下がらせる。
――こっちだ。
呼ぶ声の聞こえた気がした。いつの間にかシャーズまでいる。彼は後方の柱のそばにいて、そこから私に手招きをしている。
私は後ずさりしながら数歩下がり、小走りに走って、シャーズと一緒に石柱の陰に隠れる。向こう側にいる二人は、一触即発。
旦那様が冷笑して言う。
「女一人思い通りにできないのか。情けない男だな。テオドールはお前に何も教えなかったのか」
「不必要なことを教わらなかっただけです。私は両親が育ててくれたことに感謝していますし、父を父と呼べることを誇りに思っています」
ここからだとフェリックス様の表情は見えない。どうかいつもの冷静さを失いませんように。私は祈る気持ちで彼の背中を見つめる。
脅しに効果がないと分かると、旦那様は彼を懐柔しにかかる。
「私にそんなことを言うものではない。私は君の味方だ。君が名門貴族の一員に戻れるよう、口利きをしてやろう」
「必要ないと、昨日も言ったはずです」
「君はまだ若い。何も分かっていない。好んで険しい道を選ぶことはない。あるものを使うだけだ」
おもねるように旦那様が言う。
「ほんの少しだけ、私の助力があれば君には大きな力が手に入る。多くの人が君に服従し、命令を聞くようになる。何をするにも思いのままだ、財産も名誉も、女も……私が君のために道を切り拓いてやろう」
「私は、親が敷いた道を進むような、従順な子供ではない。父は私のために道を作らず、良いも悪いも自分で決めるよう言った」
「お前の父というのは偉大な男だな。だがその男が選んだ女はどうだ? なぜ、お前の母親はテオドールと同じ墓所に入らなかった? 卑しい女は、死んでも呪われているからだ」
「母を侮辱するのは許さない!」
ついにフェリックス様が怒鳴った。旦那様が嘲笑する。
「許さない? お前に何ができる。あの魔法の短剣が、私を刺すとでも? お前にはできないはずだ。やれるものならやってみろ」




