ある日、母は杉花粉と和解する
1883年。英国で宝島の初版本が発売された。宝島は、発売されるやいなや本国で大変な評判を呼び。スチーブンソンは一躍有名作家となった。
人々は熱狂的にこの作品を迎え入れた。しかし出版直後に【有害図書】として、レッテルを貼られてしまう。
少年が主人公であるにも関わらず、殺人や裏切り、そして海賊たちが往航する。
この海洋冒険小説は、確かに血沸き肉踊る楽しい作品であることは間違いない。
これは、年端もゆかぬ子供の目に触れさせることは、大変に好ましくはない。
当時の英国の大人たちは皆そう考えた。
宝島は有害な図書認定された。
子供がが読むことは、100年近くも固く禁じられた。
しかし、今でもこの作品は多くの子供たちに読みつがれている。
宝島は、いつの時代も子供たちの胸を踊らせる。それは今も昔も変わらない。
宝島に登場する悪役ジョン シルバー。今でも英国では、物語に登場する悪役ランキングでは、ダースベイダーやバットマンのジョーカーを跪かせる。
子供たちは、そこに面白い物があれば、その匂いを必ず嗅ぎ分ける。
どんなに親や大人がそれを遠ざけても。棚の奥にしまって鍵をかけても。無駄だ。
今も昔も、国や人種の区別もなく。
とことん貪欲な生き物だ。
ヴィクトリア朝時代に、英国で禁酒法が制定されても、一軒のパブも店を畳まず。ビールの消費量は増加の一途を辿った。
「それと似ているやも知れないね」
「或いは全然似てないかも」
煙りの輪を浮かべるみたいに。
教授はそんな話を講義でしていた。
そんな知識は、大学を卒業してOLになっても。別に役にたったことなんてなかった。
たまに合コンで「子供の本とか勉強してま~す」
なんて言うと一瞬男うけする。
内容を深く詳しく話せば興醒めだ。
絵本のこととか…勉強したわけではないから。結婚して子供が出来ても同じだ。
上の娘が生まれヒロトが次に生れた。
「可愛い女の子ですよ」
「元気な男の子ですよ」
「知っているわ」
そんな言葉は顔を見た時に消えてしまう。腕の中に抱いた御包みから伝わる重さ。そして肌のやわらかさ。
いつも真新しい喜びだった。
指の数を数えるように、無事に生れたことに安堵して。私は胸の中で呟いた。
「健康でいて。無事に育って」
乳児の時から小学校に上がるまで、どれだけ予防接種を打っただろう。
私の時もこんなに注射ばかりしたかな。そんなことを考えた。
「お姉の時より注射増えてない?」
チャイルドシートの息子に、ハンドルを握る私は話かけたっけ。
ウィルスや風邪や病気に負けないでね!
「まだまだ、おばあちゃんになんて、なりたくないなあ」
そんなことをママ友たちと話しながら。
私が見る未来は子供たちの未来だった。
子供が大きくなれば少し欲も出る。
「まだ・・そんなに小さいうちから、習いごとや塾なんて気が早いだろ!」
「あのね」
そんなことを、のんびり顔で諭す夫に、私は犬歯を剥いて言った。
「貴方みたいに『僕は子供の味方です』なんていい顔だけすましてる、無責任な旦那ばかりだから・・私が嫌われても言わなくちゃならないの!」
子供たちの教育に関しては、夫ともよく口論した。喧嘩になった。
私だって幼い子供に、やれ勉強しろだの塾に行けだの言って、疎まれるのは嫌だ。
それが好ましくないなんて知ってる。
私だって勉強は好きじゃなかった。
でもこの世界には格差も差別もあれば。生まれた時から競争だってある。
優しい世の中だから。
優しい暈しが入ってるだけ。
決められた平等やルールがそこにあれば。
ルール違反にならない反則だってある。
毎日学校に通って、勉強や宿題も頑張ってる。
それだけで本当は『えらいね!』と頭を撫でて誉めてあげたい。
だけど、それだけでは卒業した後で、次の試験を受ける資格すら貰えない。
そんなこと親ならみんな知ってる。
「あなたは勉強だけしてればいいのよ」
そんな風に子供の大切な時間を奪って。
学校の外でもお金をたっぷりかけて。
模範解答を最初から手渡される子供。
そんな親に育てられた子供に、うちの子供たちが負けるのは、絶対に嫌だった。
将来行きたい場所にも行けず、定職にも着けずに、そんな連中に顎で使われる。
そんな惨めな未来。自分の子にだけはけして迎えて欲しくはなかった。
だから嫌われても疎まれても構わない。私はそう思っていた。
それは私の身勝手な親としての欲。
自由主義の中で培われた競争の原理。
それはまだ、存在していただけ幸せな、葛藤やジレンマや、心の痛みでもあり。
希望の残る社会でもあったのだ。
それが破綻して失われるまでは。
「だめよ!」
そんな未来にばかり人は舵を切る。
舵を切れるならまだましだ。
この世界が向かう未来に、大人になった私たちは成す術もない。
気がつけば、氷壁めがけて滅びに向かう客船の乗客の役。それしか残されていなかった。
私たちが子供の時に、かつての大人たちが見たような、コミックや映画で見たような世界。そんな未来に今も生きてはいない。
一見しただけでは、人と見分けがつかないような、感情や思考を持ったAI、空を飛ぶ自家用車、星を捨て、火星に移民する人類を乗せた方舟。
それは、未だに私たちの時代には実現していない。私が生きているうちにそれらを見ることは、おそらくないだろう。
崩壊する文明や、破滅に向かう世界の住人たちの姿は、それよりさらに遥か遠い未来の物語で。
御伽だった。
人が夢見た未来よりも。
デストピアの方がずっと近い。
それこそ手を伸ばしたその先に。
薄い壁一つ隔てた場所にあった。
私たちが今暮らしている世界。
私は、親だから。
私は、いつも子供のことを考える。
気がつけば、いつも子供のことだげ考えて。生きるようになっていた。
私は人の親だ。
これからも考えるだろう。
色んな欲もある。
子供の成績のこととか。
栄養不足にならないようにとか。
健康面のこととか色々。
考える。
まだおばあちゃんにはなりたくないなあ。
でも…いつかは娘や息子の子供に会いたい。
あたたかいだろうな。
やわらかいだろうな。
いい香りがするだろうな。
もう一度包まれてみたい。
抱きしめてみたいな。
そんな幸せな気持ち。
生まれたばかりのあの子たちみたいに。
これまでの間にも、私は子供たちに勝手に、たくさんの自分の夢を重ねて生きてきた。
親の欲と言えば確かにそう。
幸せになって欲しいから。
そう思えることが幸せだった。
「母さんどうかした?」
だから私はこの子に嘘をつく。
真顔で真剣に嘘をついた。
「なんでもないわ」
私はぴんと手足や背筋を伸ばした姿勢で。その場に立っている。
「母さんなにしてるの?」
「母は今杉の木になった気持ち」
「杉の木?」
「そうよ」
「それは杉じゃなくて、クリスマスとかの樅ノ木じゃない?」
どうやら息子のヒロトには、私が杉ではなくて。樅ノ木に見えるらしい。
「あ」
「わきが甘いよ」
息子にわきが甘いと言われた。
息子は杉のフォルムにうるさい。
私は両手を股にぴたりとつける。
「そうそう!杉の木なら、そんな風に、ぴーんとしてないと!手がだらんとしてたら…杉に見えないよ!それにしても、なんで急に杉になったの?テツガク?」
「へへへ・・なんとなく」
「もういいよ!いって!」
つれない声で息子は言った。
これ以上つき合いきれない。
そんか感じで。
「しっ!しっ!」
私を追い払う仕種をした。
杉と杉の花粉。
忌まわしき天敵。
「消えてなくなれ!この世から1本残らず!!枯れて燃やして灰になれ!!!どうか死に絶えてしまええ!!!!へけし!」
杉花粉の季節になると、私は涙目で鼻を啜り。呪詛の言葉を呟き続けた。
「哲学じゃないけど、母さん今は杉の木の気持ちなの!こうすると、杉の気持ちがわかるのよ~ヒロトもやってみ?」
「母さんが…いよいよおかしくなった」
私は息子が言うように。人に植林されて。ただひょろひょろと真っ直ぐに伸びて伸びて。
列を乱さずに整然と並んだ。
あの杉の木たちと何も変わらない。
自らの足で動くこともままならず。
立ち尽くすだけの植林された木だ。
他の木と同じ規格。
いつしか気がついたら。
そうなっていた。
けれど文明の陛という崖っぷちに立った時。それは思考よりも早く。
微弱な電流のような言葉が。
私の脳を駆け抜けた。
私を、それまで支配していた、人の親として、心地よい縛り心地の鎖が、するりと解ける。
前に、これより先に、進むことを拒んだ。
心か退化する。
太古の時代からこの世界に在った。
杉の心に逆戻りしたようだった。
私は長年宿敵だった。
杉の木と和解した。
ねえお願い
空を飛んで
飛散して
拡散して
増殖して
この世界にのさばって
蔓延れ
蔓延れ
子供たち
お願いだから。




