母とある日の宝島
「は~疲れた~」
ようやく運動会が終わった。
帰宅した息子は、ダイニングテーブルに身を投げ出してくつろいでいた。
「ヒロトお疲れ様」
「最後の運動会頑張ったね!」
「でも100メートル競走は、たっかんに負けた・・やっぱ、あいつすげえや!短距離じゃかなわない・・」
「でも、最後のクラス対抗リレーは優勝できたじゃない!」
私がそう言うと、悔しげなその表情が、すぐに誇らしげな笑顔に変わる。
「ふふん!どっちか言えば、そっちがうれしいかな・・走る前は全然そうじゃなかったのに・・不思議な気持ちだ!」
「小学校最後の運動会で、優勝出来てよかったじゃない」
「言ってる間もなく文化祭だよ」
「修学旅行もね」
ウィルスの影響で、一度は中止と告知された学校行事が、次々開催されることになった。
「学校でも、みんなのテンションめちゃくちゃ上がってんだ!」
「そうなんだ」
私は上気した息子の顔を見て頷く。
「みんなはしゃぎ過ぎで『おちつけよ』ってかんじ・・もうほんと、うるさいぐらいだよ!」
小学校にも活況が戻ったようだ。
「中止にならずによかったね」
「でも今日は疲れたな~」
「そんなところで眠らないでね」
「母さんのお弁当もおいしかった~ありがとう!」
「お父さんも・・カメラまわしてる間中応援し過ぎて、声が枯れて大変みたい」
満足気にテーブルに伏している。
息子の横顔を見れば私も笑顔になる。
やはり折々の行事や、お祭り的なイベントは子供の成長には欠かせない。後に大切な思い出になるはず。
ただ机に向かって勉強する毎日は、味気ないしつまらないものね。
「空のお弁当の器…こっちにちょうだい」
息子が食べ終えた、サプリメントが入っていた器を私は受け取る。
息子の声が掠れているのは、体育祭で大きな声を出して頑張ったからではない。
まるかった頬も、この頃は少し尖って。出会った頃の夫の顔に似て来た。成長の証だ。
手をのばして、頬や髪に触れたいけれど。最近はそれも嫌がる。
3年生の時に頬にキスしようとしたら。
「気持ち悪いから止めて!」
そんなことを言われて私は泣いた。
そんな記憶が甦る。
私は料理があまり得意ではない。
「これ美味しくないよね」
夫も娘も昔から、ものをはっきり言う。二人は、よく似た瞳と性格だった。
「美味しいよ!お母さんの作る料理は、全部美味しいよ!」
息子だけが、いつもそう言って、私の料理を喜んで残さず食べてくれた。
もはやそれも出来ない。
食材の生産も流通も、壊滅的な打撃を受けた今、営養補給のためのサプリに頼る他なくなった。
それは近年発生した、現在も猛威をふるい続ける進化型ウィルスのせいばかりではない。
今は世界中で蔓延している感染症だって。
人の叡知でほどなく沈静化するはず。
しかし、ウィルスと呼ばれるものの進化の速度は発生する毎に増している。それも事実だ。
でも、今はまだ大丈夫。
ただ、それまで私たちの住むこの星の、人間に恩恵をくれていたものすべて。
大気や、太陽も、水でさえも。私たちにはもはや、そのままでは有害でしかない。
私たち大人社会と、ウィルスが、少しずつ時間をかけて、子供たちから豊かな自然と、自由にお日様の下を笑って歩く。そんな世界や未来を奪ってしまった。
生きることはお祭り。
それを失ったからわかる。
小さな町や村の小さな縁日。
県外や他所の国から。大勢の人が訪れる大きな祭りも。コンサートだってそうだ。
人がそこに集う。
肩や、顔や、息さえ触れあう距離で。
喜びや感情を思いきり爆発させる。
生きてそこにいる喜びを分かち合う。実は神様なんてそっちのけで。
息子の学校の運動会や行事だってそう。それは全部お祭りだ。
お祭りだった。
祭りは、貧富の差も国籍の差別もなく、誰もが参加してよかったはずだ。
それは失われた。
これは大人から子供への罪滅し。
息子のヒロトは、本当はもう1年近くも学校には通っていない。
運動会で走ってもいないし。私が作ったお弁当も食べてはいない。
頭に埋め込んだ端末が、脳にそうした映像を見せ。疑似体験をさせただけだ。
仮想の学校のグランドを友達と走れば。脳から神経を通じて、まるで運動をしたように体に負荷がかかる。
疲れたようにもなる。
味も香りも無い、営養補給だけのサプリを食べても、私が拵えたお弁当を食べたように感じ。空っぽの胃袋も、満腹で満たされた気持ちになっただろう。
私たち大人が子供たちについた嘘。
それは、せめてもの罪滅しと言えるのだろうか。
今はまだ私にもわからない。
この子が、やがて成熟した感情や思想を持ち、現実のこの世界を受け入れる日が来るまで。
私たち大人の罪を知る日まで。
その時までの幸せな微睡み。
せめて幸せな夢を見て欲しい。
多分それは大人のエゴに過ぎない。
ただそれを見ていたい。それだけ。
そんな私たち大人の身勝手なエゴ。
だけど、この子の姉は部屋で話してくれた。
高校生になる娘は、私にうちあけてくれた。
「昨日、学校でね・・ほら・・前に話したよね。その男の子、タケル君に告白されたの・・」
娘は、そこが以前通っていた学校ではなくて、自分の部屋だと知っている。
彼女はそれを知って許される年齢だ。
それでも、私の娘と、娘に告白をしてくれたっていう・・同級生のタケル君だっけ。
二人の感情や心の触れ合い。
けして虚でも仮想でもない。
私は娘とそれを共有出来た。
だから私は息子にこう言った。
罪の意識を母の声で振り払う。
「風邪ひくから…ちゃんと着替えてよ!」
私は、空の器を下げにいくふりをして、キッチンに向かうふりをする。
途中で鼻を少しすする。
「また花粉?」
背中で息子の気遣う声を聞いた。
私は、以前はかなり酷い花粉アレルギーに悩まされていた。
今、密封され、昼夜清浄化されたわが家の空気の中では、それはあり得ない話だ。
花粉ごときに悩まされていた。
そんな私が懐かしい。
この国ではかつて、花粉アレルギーが蔓延していた。理由は実に簡単だ。
戦後政府の復興政策の負の遺産だ。
国は、建材となる杉の木を国土の山野に、じゃんじゃん植える事を奨励した。
経済の復興と発展に伴うベビーブーム。人口の増加と建築ラッシュ。
農林水産省は、そんな甘言や美辞麗句を用いて。林業関係者を大いに焚きつけた。
材木の高価買い取りを約束したからだ。
その親方日の丸との約束も、日米間の木材輸入の取り決めで、いとも簡単に反古にされた。
よくある話だ。
本当はそこに生育出来ない場所。
山の際や急勾配の崖地。
昔からご先祖様が生えてなかった土地。
杉の木たちは無理矢理植えられた。
「このままでは枯れる」
そう感じた杉は、季節になると通常の2倍3倍量の花粉を飛散するようになった。そんな話を聞いた。
なんて迷惑な話だ。
勿論それだけが原因ではない。
その頃から地球環境は悪化の一途を辿り。新しく生まれた子供たちは、生きるために。生き延びるために。
大量の予防接種の投与が必要になっていた。
いつか私たちの体は、些細な体内の異物にも、空気中を漂う花粉にも、過剰反応するようになった。
あんなに憎かった。
煩わしい杉の木。
今私は、そんな杉にシンパシイを感じる。
息子よ、母は杉の木になりたいとさえ思う。
「ねえ・・ママの出た大学って、偏差値や倍率とかすごいよね?私でも頑張ったら・・そこ行けるかな?」
大学受験を控えた娘とそんな話をする。
「私は文系だったし・・そんなに難しくはないわよ」
私は娘をそんな風に励ました。
「今から頑張れば・…きっと合格出来るよね!」
「焦りは禁物よ」
娘にそんな風に言いたかった。
でも若いうちは前のめりになって。焦ることも大事かもしれない。
この頃はそんな風に思う。
キャッシュレス決済が巷で主流になった頃。主婦の私は、5%とか10%ポイント還元や、キャッシュバックが嬉しかった。
でも本当は、そのために提供する個人情報は、そんなに安いものではなかった。今になって私は思う。
このシステムを享受して、少しでも子供たちに恩恵があればと思い。
私たち親は、子供たちと家族の個人情報を提供した。
子供たちの脳にある端末。住所や名前や性別だけでなく。国や、誰かがその気になれば。遺伝子の情報までも読取り解析が可能だ。
この子たちの、将来かかりやすい病気の種類や、およその寿命。
受験の合格可能な学校のランクや、将来就ける業種まで先読み出来る。
子供たちは知らずに解析分類され、ランク分けされて、その将来に関を下ろされてしまうかもしれない。
私たちが、子どもの為に国に売り渡したのは。恐らくそういうものだ
「大丈夫!あなたはママの子だもの!」
私は、そう言って娘の頭を撫でる。
大丈夫・・貴女ならきっと大丈夫。
私は、いつもそう信じてるから。
それでも・・そんな言葉にも、すがりたい希望や未来への欠片はある。
遺伝子情報や血液や身体的特徴。それらの全てのバックアップや、補完が可能なら。万が一、この子たちに何かあったとしても。
娘の髪に触れながら、私はそんなことを考えるようになっていた。
以前なら頭に端末を入れる事さえ。倫理上の議論がされていた。
未だ禁忌扱いされている、人間の複製化だって。その封が解かれるのは、もはや分刻み。時間の問題だと言われている。
「ねえねえ!ママは大学の授業で、なにが1番楽しかった?思い出とかある?」
「サークルで行った苗場」
それから卒業旅行。
とは・・さすがに答え辛い。
大学の授業は退屈だった。
学校で習ったことは、殆ど忘れた。
今でも、テキストや問題集を見れば。解答欄の穴埋めは出来るだろう。
暗記反復の繰り返し。
それで大学に受かった。
娘に、学校の勉強のことでいきなり質問されても、なんとか恥はかかずに済む。
それだけは、あの時勉強しといてよかったとは思う。その程度だ。
学生時代は英語だけは得意だった。
大学に入って、何となく面白そうだった選択科目は英米児童文学だ。
古典的名作と呼ばれる。海外の児童書を原文で読み。学期末にリポートを提出する。
そんな内容の講義だった。
誰もが知ってる海外の名作と呼ばれる。子供のための書物。
子供の本なら、原文とはいえ簡単なものだ。そう思ってなめていた。
どれもこれも大人の読む本並の文字数。
いや、それ以上にどれもぶ厚い。
まるで百科事典のようだった。
そこに書かれていた文字の大半は、物語の本筋とは関係ないものだ。
説教や訓示で溢れていた。
少し訳しただけで辟易した。
何世紀も昔。子供の社会的地位も紙同然だった時代。子供のために、豊かな情操や、芸術性の高いものを与えたい。そんな思惑は微塵もない。
親や社会にとって、従順で有益な人間に育つために作られた、啓蒙と教育のための本。
それが当時の児童書。
今日も残る名作と呼ばれる物語だ。
こんなの…本当に昔の子供は読んでたの?
「読んでいたんですね」
大学の講義で教授は言った。
「それは今と変わらない子供の姿です」
大人が「それを読みなさい」と言われたら。なにか理屈や文句をつけて読まないか。生真面目に勉強だから仕事だからと。
我慢して読むかするだろう。
当時その本を読むように大人や教師に言われた子供たちはどうだったか。彼らは読むふりだけはした。
もちろん、完全にまったく読まないわけではなかった。
つまらないと思う箇所はどんどん飛ばして。
面白いとこだけ見つけて読んだ。
子供は、昔からそうした能力に長けている。
生れつき、面白いものを見つける嗅覚が備わっていると言うべきか。
私は大学での教授の講義を思い出す。
「ここにいる学生諸君は、ロバート ルイス バルフォア スティーヴンソンの名をご存知だろうか?」
単位が欲しいだけでした。
漫然と聞いていた。
「スチーブンソンの方が通りはいいかな・・そう!かの有名な【ジキルとハイド】そして【宝島】を書いた1800 年代の英国作家。スチーブンソンと、彼の作品【宝島】に焦点を当てた講義を本日はしようと思う!」
宝島。
そんな胸ときめかせるワード
裏腹にアンニュイな面持ちで。
私はその講義を聞いていた。




