第8話:デジタル包囲網とハッカーの敗北
10. 迫り来る悪い奴ら:デジタル・包囲網の形成
シン・新宿の片隅、十平米のポッドは今や絶え間ないSNSの通知音という名の電子的なノイズに侵食されていた。
ヘレンの純粋すぎる「魔法の鏡」発言は、リリの虚飾を暴いた痛快な一撃として一部で喝采を浴びた。
よく言った、と面白がる野次馬の声も確かに存在する。
しかし同時に巨大な敵意を呼び起こすトリガーとなった。
「……リリの信者と炎上イナゴめ。
ヘレンのあの発言を『計算通りの売名炎上』だと決めつけて叩き始めているわ」
ミントはミラーグラスの端を叩き、激流のように流れる誹謗中傷のログを吐き捨てるように見つめていた。
注:ARフィルターについて指摘するのは、整形を指摘するのと同じレベル。
「鼻いじってる?二重は作り物?」を公共の場で言うのと同じレベル。
「あ、ニクスお帰り」
「建物の周りのネズミがいたので、駆除しておきました」
炎上騒動でミントたちの居場所が特定され、物理的な嫌がらせやバズ狙いのリアル凸のことだろう。
「あなた、まさか」
「おかえり願いましたよ、素人さんを殺めたりしません」
ミントが胸をなで下ろす。
「機材が無ければ、ここに残っていてもタイパが悪いということです」
とニクスが言う。
「うーん、ちょっと違うかな」
SNSのノイズに混じって、メッセージが届いた。
差出人はリリの所属する芸能エージェンシーのシニア・プロデューサーK。
※
件名:【重要】貴殿管理タレントによる弊社所属リリへの権利侵害および損害補填について
ミント様
平素より大変お世話になっております。
弊社所属タレント「リリ」のチャンネルにて発生した、
貴殿管理タレント・ヘレン氏による「ブランド毀損」および不適切な演出により生じた多大な営業損失について、以下の通り最終提示をいたします。
本件によるリリのイメージ失墜、広告契約の解約、および精神的苦痛を鑑み、
以下のいずれかの方法による補填を要求いたします。
1. 損害賠償金の支払い
(内訳:広告解約違約金、ブランド修復費、および機会損失費用)
2. 代替案:管理権限の譲渡(移籍)
上記金額の支払いが不可能な場合、貴殿が管理する「ヘレン」および「ニクス」の両名を
弊社へ無償移籍させること。
移籍後、両名は弊社主導のプロジェクト(リリの公式ライバル、またはプロモーション・サポート役)
として再編いたします。
回答期限:48時間以内
※
「これで自然消滅は無理ね。これでは引っ越し資金どころか、完全な赤。
二人を移籍させてもまともに扱われるとは思えない。おそらくリリの『引き立て役』?」
ミントは苦い顔をしている。
「良かれと思って案じたことが、なぜこれほどまでに憎まれるのでしょう」
ヘレンは部屋の隅で、己の無知に打ちのめされていた。
デジタルな中傷の包囲網が、ミントたちがようやく築き上げた「居場所」を音もなく包囲し、
逃げ場を奪い始めた。
この事態を無視するには、反響という名の炎があまりに大きすぎた。
タイムラインは秒速で更新され、ヘレンの「魔法の鏡」発言を切り取ったミームが、
悪意ある改変と共に拡散され続けている。
ミントのハッカーとしての論理は、論理そのものが通用しない感情的な大衆の群れを前にして、
完全に詰みかけている。
「下手な謝罪動画を撮らせれば、言葉の端々を切り取られて燃料にされるだけ。
かといって沈黙を続ければ、それは無言の肯定と見なされる。
アンチ全員にサイバー攻撃を仕掛けるには、ワタシのリソースじゃ手が足りなすぎる……」
「ネットの海に潜り慣れたギグ・メンバーたちにチャットで相談してみましょう」
彼女が期待したのは、ハッカーならではの鮮やかな逆転コード、
あるいはシステムを根底から覆す「裏技」としてのソリューションだった。
だが、画面に返ってきた答えは、冷酷なまでに一貫していた。
「ネット炎上の後始末に銀の弾丸(決定的な解決策)なんてない。
大衆の関心が別のスキャンダルに移るまで、息を潜めて待つのが業界のベストプラクティスだ。
別の方法があるなら、メガコーポが採用している」




