第49話「堕天」
食堂を出てから、リーネットの思考はより浮遊感を増していた。
夜道をひとり歩いているような、そんな気分。
バネになって飛びたくても、飛べない。
心がブレーキをかけて、ひたすらリーネットの目を空に向けさせる。
空が、遠い。
ルヴィア、ラナフィーとの戦いのときにあんなにも近かった場所が。
ロベリアからの奪取。
アダムスカからの追求。
そしてカプノスとの約束。
これが彼女が今見ている空の色だ。
やけに青々とした、鉛色だ。
近くにあった自販機でジュースを買ったが、柄にもなくチビチビ飲む。
喉は渇いているのに、動きは鈍く、目は空から地上の遠くへと向けさせた。
そんな彼女を撫でてくれる風はない。
この不思議な感覚を背負ったまましばらく時間を過ごすとチャイムが鳴った。
午後の授業10分前のチャイムだ。
「ん、電話か」
スマホの画面には『クソオヤジ』と文字と受話器のアイコンが浮かぶ。
父親がこうして電話してくるのは極めて珍しいことだったので、反射的に通話をオンにしてしまった。
それはすぐに刹那ばかりの後悔になる。
『リーネット』
「……なんだよ」
『いや、別に、その』
「もう切るぞ」
『待て! じゃあ聞きたいことがある!』
「早く言えよ」
『ロベリア嬢とはどうなった? ちゃんと無礼のないようにしているんだろうなッ! あ、あと儂のこともなにか言っておられなんだか?』
「────」
この電話でリーネットの思考は浮遊感から解き放たれ、殺しを決意した暗殺者が如し鋭利なものになる。
「アイツとは初めっからどうともねえ」
『は!? なにを言っている!? ロベリア家とのパイプがどれほど貴重なものかお前にはわからんのか!? まさかお前……ロベリア嬢を怒らせたのではあるまいな!』
「怒らせるもなにも、お互い殴り合いの約束したばっかりだよ」
『ふざけるな! 今すぐにでも謝りに行け!!』
「それとなオヤジ。大事なことがある」
『な、な、なんだ!? これ以上に大問題があるのか!』
「アタシは、学院を辞める。家も出ていくよ」
リーネットの言葉を皮切りに、向こう側からの声が消えた。
通話は切れてはいないが、彼女の発言に呆然としているのだろう。
返答をまたず、リーネットは電話を切った。
素早く父親をブロックし、また空を見上げた。
今ごろ身体中の血管が破けそうなくらい絶叫しているだろう。
想像しただけで、耳の奥が痛くなった。
「あーあ、これでもう後戻りはできねえな」
乾いた笑みが零れでた。
しかし、気分はさっきよりずっといい。
清水が湧き、満たされ、安らかに沈んでいくような穏やかな気分。
すべてがクリアに見える世界を捉え、リーネットはまた準備室へと戻っていった。
準備室にはまだカプノスがいた。
申し訳なさを色濃く残す顔でリーネットを見る。
リーネットは、しっかりと意思表明した。
「もう大丈夫だ」
「ホントに? 無理してないかい?」
「生憎無理してるときはキッチリ文句いってやる主義でな」
「そうか……」
「気にすんな。アタシの生まれどうのこうのは、アンタのせいじゃない」
「それはそうだが……」
「アンタは絶対に元の場所へ帰してやる。命に代えてもな」
「……戦うんだな」
「全部終わったら、学院だって辞める」
「え!?」
「元々向いてなかったんだよ。こればっかりは仕方ねえ」
「いや、別にいればいいじゃないか! あ、もしかしてアダムスカに疑われているから────」
「落ち着け。もう、そういう問題じゃねえんだ」
カプノスはそれ以上問えなかった。
リーネットの微笑みの裏にある決意を、彼では砕くことができない。
「なにもかも空っぽで《《最高》》なアタシができることは、もうこれくらいしかない」
「……わかった。わたしに協力できることがあれば遠慮なく言ってくれ」
「ハハハ、ねえよ。これから帰る奴に戦闘に参加させるわけにはいかねえ。帰すときにボロボロだったら後味悪いし、それに、戦闘中に具合悪くなったらかなわん」
「……そっか」
「アンタはあの実験棟のところで待機。それでいいだろ?」
「……決行はいつだ?」
「明日、かな」
「おそらくだが、ロベリアは最強の敵と思ったほうがいい。戦力を揃えるんだ」
「ルヴィアとラナフィーだな。……連絡先知らねえ」
「まだ知らなかったのか……」
「き、今日中にやるよ! 探せばいいんだろ探せば!」
「ま、まぁ、その前にだ。ゆっくりしていきなって」
「え、でも……」
「少し、疲れているだろう……?」
「……そう、だな」
リーネットはいつものように床に座った。
しかし今度は彼のすぐ隣に。
窓から差し込む光がふたりを包んだ。
心なしか温かく感じたリーネットの表情はどこか穏やかだった。
「……最初に出会ったのが、君でよかったよ」
「最悪の出会いだったなアタシたち」
「────ありがとう」
「おいおい、お礼を言うの早いんじゃねえか?」
「お礼ってのはいつ言ってもいいんだよ」
「そういうもんか?」
「あぁ、特にこういう人生の大一番が近いときはね」
「ハハハ! 違いない」
しばらくふたりで笑い合った。
くだらない思い出話に花を咲かせた。
時間はあっという間で、気がつけば夕方だった────。




