第44話「月が綺麗」
「まぁ、聞いたことはあるかな」
「今から100年ほど前に実施された有人宇宙飛行計画……その名も『ダフネ・プログラム』。魔術師ですらない数多の人間が、宇宙飛行士としてその名を歴史に刻みつけました」
「宇宙ロケット。……科学技術が魔術と初めて対等になったきっかけ、だったっけ?」
「科学が魔術を上回った、なんて大ボラも当時はいくつか出回ったそうです」
「魔術でもできなかった月面着陸。そりゃ誰だって興奮する」
「しかし歴史の裏では、多くのホムンクルスが非公式のロケット発射実験で犠牲になりました」
「非公式の? でもそういうのは犬とかネズミを使ったりするんじゃないのか?」
「当時の科学者たちは、ヒト型によるデータを欲したのです」
「それは、悲惨だね」
「誰にでも憧れの偉人がいるように、ワタシにもそういう存在がいるのです。アプロフィスという宇宙飛行士なのですが」
「どういう人?」
「彼は実質的な、ホムンクルス初の月面着陸者。知識と技術を身に着け、まだまだ粗悪な実験機だったダフネ13号に搭乗し、本当の意味で最初に月へ降り立った。本来は月が本当に安全な場所かを確認させるための、言わば鉱山のカナリア」
当時においても、宇宙は未知なる領域。
どんな脅威があるか、魔術を以てしても観測しきれない。
特に、怪異の有無に関しては。
怪異がいたとして、宇宙に解き放たれた知性体にどんなアプローチを仕掛けてくるのかも、想像できない。
目指すべき月に際しても、例外ではなく。
「それも非公式か。よく知ってるね。やっぱり名家の力は違うな」
「この手の情報は探すのに苦労します。……でも、その価値はある。だって、彼は今もあの月で眠っているのですから」
「……なんだって?」
「歴史上では搭乗員は複数名からなる人間です。しかし、正確な機体名はダフネ17号であり、そこに彼の名はありません」
「その、アプロフィスって人はなんで月にずっと? 回収されなかったの?」
「────……彼は、自由になりたかった」
なにがきっかけか、なにを根拠にそう思ったのか不明だが、ある日彼は宇宙に真の自由を見出した。
地上にないものが、きっと空にはある。
そしてふと考えた。
月にはなにがあるのだろう。
月をモチーフにした魔術はあれど、真理ではない。
月に行けば、月をもっと知れるだろうか。
月を、愛せるだろうか。
────神話でそうした話があったように。
彼は月に着陸すると自ら着陸船を破壊し、地上との連絡も断った。
完全なる生死不明のまま、彼は帰還しなかった。
のちにダフネ17号がダフネ13号として月へ訪れ、表向きの『人類初の月面着陸』を果たす。
かの忌まわしいデータであるダフネ13号の回収もしくは破壊を試みるが着陸予定の地点から大きく外れ失敗。
────本物のダフネ13号とアプロフィスの遺体はどうなったのか、知る者はいない。
「彼は月に恋焦がれた。月に骨を埋める覚悟でかつての世界を騙し、宇宙へ行ったのでしょう」
滔々としゃべるロベリアは、彼の境遇を自分と重ねていた。
アプロフィスが自分で、月が夢の中の世界。
怪能は愛を運ぶロケットである。
「夢の中の世界に真の自由がある。そう言いたいのか?」
「えぇ、でもワタシひとりでは叶えられない。アナタと一緒だからこそ自由は手に入る」
「それが、結婚?」
「純度100パーセントの好意ですが?」
歴史と絡めつつ、ロベリアは思いの強さを伝えた。
そして真の自由。短命である彼女にとっては喉から手が出るほどに欲しいもの。
そこに愛が絡めば、命をとしてしまうのも情である。
しかしどちらにしてもカプノスからすれば、気が遠くなりそうな話だった。
カプノスが提示し続ける不可能に、ロベリアはあまりに涙ぐましい狂気的な愛で挑む。
ロケットで月に行くのとは、またわけが違う領域だ。
「君の境遇には同情するが、わたしにはどうすることもできないよ」
「こんなにお願いしてるのに?」
ロベリアの表情が険しくなる。
もうとりつくろいもしない。不安げに腕を組むようにしてカプノスを睨んだ。
「わたしは早々に帰りたい。君を連れていくことはできないし、君のことを待っている余裕はない」
「……」
「が、そうだな。もう少しだけここで月を見るのもいいかな」
「なら、ひとつだけお願いします」
「なにかな?」
「0時になるまで、一緒にいてください。その間他の女のことも、月のこともなにも言わないで」
「……いいだろう」
小さな子供のような弱々しい声調だった。
しかし、その裏ではまだ諦めきれない情念が渦巻いていた。
その熱を冷ますことはカプノスを含め誰にもできない。
このふたりの怪人の様を月はまだ見下ろしていた。
カプノスはただ彼女の傍にいた。
しかし、それ以上の会話はない。
いつしかロベリアはプールに身を沈ませ、中央でその肢体を仰向けになるように浮かせる。
月光が彼女の身体を撫でるように照らした。
本人に自覚はなさそうだが、惜しげもなく自らの身体から光を反射させ、カプノスに魅せているかのよう。
カプノスはただ黙ってそんなロベリアを眺めていた────。




