第43話「敗北者」
22時。
しんと静まった夜の学院には、もう涼やかな風は吹いていない。
カプノスは学院の隅に設けられた屋外プールまで足を運ぶ。
生温かさと湿気のある空気が、重い足取りに絡みついた。
鉄格子の扉の鍵は開いている。
水面を足か手で軽く掬うような音が、耳介にかすかに響いた。
帽子のつば越しに、かの邪悪な女の気配を感じる。
この地点で回れ右したいが、約束を違えたあとのことが怖いので渋々入ることに。
「ふふ、嬉しい」
ロベリアはプールの縁に座り、膝下をその水に沈めていた。
いつもの制服ではなく、より肌面積の多さを強調したもの。
扇情的な赤いビキニ。
それは少女としてではなく、ひとりの女としての覚悟の姿だった。
少なくともこの姿のロベリアから放たれる艶美なオーラは、見る者に神話めいた魅了を魂に叩き込めるほどだ。
怪能を使うまでもなく、美の女神の化身たる肢体がそこにはあった。
「アナタは絶対に約束を破らない。信じていました」
「あぁ」
「…………」
「なにかな?」
「ねえ、女の子がここまでしてるのに、なにか言うことはないんですか?」
しかし、カプノスの瞳はすぐにプールの水面に浮かぶ月に向けられた。
これにはロベリアも表情が一瞬強張る。
「水が揺れてるから、綺麗には映らないな」
「月、お好きなのですか?」
「夜はこうして眺めるくらいしかできないからね」
「いつもひとりで?」
「あぁ」
「でも、今日はワタシと一緒です」
「ならプールじゃなくてもよかったじゃないか。なんで?」
「…………」
「言っておくが、わたしは泳げないぞ? カナヅチって意味じゃない。水の影響を受けないんだ」
「それはそれで、ちょっと見てみたい気がしますね」
「そんないいもんじゃない」
「……試したんですか?」
「…………うん」
「呆れた。でも、そういうところちょっと可愛いですね」
「そう思われても困るね」
「……ねぇ、もっと近くに来てくださらない? アナタの顔をもっとよく見たいんです」
「君のことがよくわからなくなってきたよ」
肩をすくめながらロベリアの方に身体を向けた直後、彼女の両腕がカプノスの首に絡みついた。
「本当は、わかってやっているのではなくて?」
密着するふたり。
アンシンメトリーの妖しい眼差しでカプノスを見上げる。
プールで濡れた肢体から雫がこぼれた。
体温を含みしっとりとした水気は、しかしカプノスの服を濡らすことはなかった。
「からかっておられるのですか? ワタシ、本気です。こうしてプールにお誘いしましたのも、アナタにワタシを見てほしかったから」
「……」
「好き」
彼の頬を包み込みように触れ、唇を重ねようとするも、カプノスは手をのかして離れる。
これには内心ロベリアも驚いた。
「わたしはそこまで親密になる気はないんだけど?」
「んもう、いけずですね。ふたりっきりで、好意まで向けられて、なんとも思わないんですか?」
「そこまでロマンチストじゃない」
「ハァ、上手くいかないなぁ」
ロベリアはまた縁に座る。
「ワタシ、本気でアナタのこと好きなんですよ?」
「へぇ」
「アナタのお嫁さんになりたいんです」
「へぇ……ん?」
「アナタと、結婚したいんです」
「そ、そ、そ、それってもしかして、……プロポーズ?」
「はい。アナタと夢の中の世界で一緒に生きたいのです」
カプノス、絶句。
怪異は恐れられたり、または珍しがられたりするのが定石。
『異形の怪異に嫁入りし災いを退ける』といった伝承がないわけではないが、経緯は違えどその対象が自分になるだなんて夢にも思わなかった。
「いや、無理だろ。なにいってんだ」
「今のままでは無理です。ですが、もう少し怪能をアップデートできれば夢の中へ入ることは造作もないこと」
「それまでこの学院にいろってか?」
「そうなりますね」
「……話にならない」
「リーネットさんにも同じことを言われました」
「ハハハハハ、やっぱり! やっぱりアイツとは変なところで気が合うなあ」
ロベリアの左目が痙攣する。
リーネットの名が出ると、共通の話題とばかりに明るく振舞いだした。
それがあまりに気に喰わない。
「彼女のこと、お好きなんですね」
「いや、好きっていうか、うん、話しやすいね。なんか遠慮なくできるって感じ」
「へぇ……」
ロベリアの声のトーンが下がっても、特に気づく様子もなかった。
「あれ、どうかしたかい?」
「別になにも。アナタの笑顔が見れてなによりです」
「そう? ならいいけど」
「……ワタシ、諦めませんよ?」
「お嫁さんになりたいんなら、わたしが帰ったあとに別の人間にするといい。君なら引く手あまただろう」
そんなものが欲しくないというのがまだわからないのかと、ロベリアは視線で訴える。
しかし、彼はロベリアを見ようとはせず、水面の月を見ていた。
先ほどよりかは美しく月光が反射している。
「月が綺麗ですね」
「月はいつ見ても綺麗だろう」
「夢の中にも月はあるんですか?」
「太陽もあれば、ブラックホールもあるよ」
「素敵な場所ですね」
「基本的にはその人の思い出や心象風景が反映されるけど、そういう宇宙のような場所もある。あれはなんなのかな? ずっと歩いてるときもあるけど、わからないんだ」
カプノスは帽子のツバの下で目を細めながら、月を見上げた。
怪異として200年以上存在しているが、未だに自らの世界のことは知り得ない。
人が科学や魔術を以て世界を解き明かそうとするように、夢の中でもそうできればいいが、そんな手段など存在しない。
まるで見えない壁が、外部からの意志を阻んでいるように。
「なんだか、距離が縮まりませんね。ワタシたち」
「元々お互いがそういうもんだからだ。君はわたしと一緒になりたいのだろうが、それはね、諦めたほうがいい」
拒絶ともとれる解答。
初めからそうだった。
諦めきれない執着を、不可能と断じ淡泊に突き放す。
しかしてなお、ロベリアの愛は燃え上がった。
────彼女は奇妙な問いをする。
「人類が初めて月へ行った話。ご存知ですか?」
「なに?」
それは本当に、唐突だった。




