第37話「ふたりの変化」
準備室の明かりは壊れ使えない。
日中はいつものように陽光が窓から差し込んでいた。
何度も足を踏み入れているせいもあり、埃はそこまで舞わないが、独特の埃臭さはある。
いつものように窓際の古びたイスに、彼は腰掛けた。
待つこと2分ほど。
片手で器用にジュース缶を2本持つリーネットが無遠慮に入ってくる。
「お、来たかリーネット」
「…………」
「どうしたんだ? 座らないのか?」
「あぁ、座るよ」
「具合悪いの?」
「……いや」
明らかに気落ちしている。
重くした双眸の奥に、これまでの覇気はない。
しかしそう言う日もあるのだろうと、カプノスは詮索せず、いつものように窓辺から外を見た。
視界の外でカシュッと音が聞こえ、吹き出る炭酸をすする彼女の息遣いが耳に届く。
視線を向けると、喉を鳴らしながら流し込み、「カハァ」と息を吐くリーネットの姿が見て取れた。
彼女の内面はこれ以上ないくらい荒れている。
嵐のような、ではない。冷えたジュースを飲んでも絶対に冷めない、燻る熱。
そういった感情を表面に出さないのが、あまりに不思議でならなかった。
性格上、そう言った熱を暴力や荒い言葉遣いで発散する。
だが、それすらなりを潜め、再びジュースをあおっていた。
その動作そのものが、声なき悲鳴にすら見える。
「…………」
だが、カプノスは迷った。
こういうとき、どういう風にすればいいかわからない。
たとえば仕事なんかであれば、そういった悩みなどは先輩や同僚に話せたりする。
しかしリーネットとはそういう関係ではないし、より根本的なことを言えば、年ごろの女の子に、「やぁ、機嫌が悪そうだね」なんて聞いてもよいものか。
すでに親しき仲とは言え、そんな対人スキルなど持ち合わせていない。
「……人のことジロジロ見てんじゃねえ」
「いや、別に」
「嘘つくな。アンタらしくもない」
「ふぅ、なにがあったんだ? 君が悩むなんて相当だぞ」
「別に悩んでるわけじゃない。ただ、ちょっと調子乗らねえときにな。運悪く出会っちまったんだよ」
「誰に?」
「オヤジとおふくろ」
「あれま」
リーネットは流れのままに、話し始めた。
そこに私情はほとんどなく、ただテキストを読み上げるように。
本人は実につまらなそうだった。
話し終わるころには、ジュースは2本とも空になっていた。
「ってなわけ」
「…………」
「……ご清聴ありがとうございましたって言えばいいか?」
「いや、そういうわけじゃない」
「ご感想は?」
「特に」
「そうかい」
終始黙って聞いていた。
カプノスも大人だからなにか言うのかなとリーネットは身構えていたが、それもなくて拍子抜けする。
カプノス自身、別に配慮をしたというわけではなかった。
そもそも他人の将来や家庭事情に口を挟めるほど、知見に富んでいない。
アドバイスや意見を求められたとて、彼から発せられる言葉に魂はなく。
だから黙っていた。
「そういや、アンタに言ってもしょうがなかったな」
「なんの助けにもなれず、申し訳ないな」
「いいよ。どこにでもある、しょうもない家庭事情ってやつさ」
「いや、結構ハードだとは思うけどね」
「……アタシは見ての通りのロクデナシ。親の苦労なんざどこ吹く風ってな。そんな奴を愛してたまるかってのが、世の筋、人の筋ってもんさね」
「でも、ちょっと言いすぎじゃないか? 君のお父さん」
「ロクデナシの扱いなんざそんなもんだよ。子供ガチャってやつぅ? お、アタシの場合は養女ガチャ。────ハッ、アタシみたいな大外れ引きやがって。ざまぁみやがれってんだ」
自嘲気味なリーネットに、ますます違和感を覚えた。
家庭事情に同情したわけではない。だが、目に見えて勢いがない。
彼女の中で、なにか変化が起きているのだろうか?
思春期特有の心境の変化か、それとも怪能による影響か。
どっちともとれるため、カプノスの分析は難航する。
(言うべきだろうか……。君が、ホムンクルスだって)
一考したが取りやめる。
なんの解決にもならないし、余計に混乱させるだけだ。
頭のいい奴ならどんな立ち回りをするだろう。
人に寄り添える優しい奴なら、どんな風に言葉をかけてやれるだろう。
どちらでもないカプノスは、ただ黙って傍にいるしかなかった。
しょせんは、人ならざる怪異に過ぎないのだ。
その決定的なラインを超える勇気も意志も、これといって湧くことはなかった。
「しばらく、ここいるわ」
「あぁ、ゆっくりしていきたまえ」
「寝るからな」
「お好きにどうぞ」
汚い床であることも気にせず、リーネットは横になる。
彼女はすぐに寝息を立てた。
おそらくルヴィアが来るだろうから、起こさないように言わないとと思いつつ、また窓の外のほうへ視線を向けたときだった。
「う、ゴホ……ッ」
小さな咳込み。
風邪気味でもないし、埃でむせ返るなど有り得ない。
なにかが口の奥から出てくる感触があり、思わずえずいた。
口を覆った手の中を見てみると……。
(これは……カミソリ? そして、花びらだ。黒い花の……!)
血は出ていない。
カミソリも花びらも確かな感触があった。
幻ではなく、現実だ。
…………どうやら、様子がおかしいのはリーネットだけではなくなったようだ。
現実世界に長くい過ぎた弊害が、ついに出てきたのかもしれない。
それか、以前リーネットに広めさせた自分の噂が、効果を発揮してきたのかも。
(決着を早くつけなきゃな)
そう思う傍で、カプノスはリーネットのさらなる変化に気がつかなかった。
徐々に蝕んでいく高熱、汗ばむ身体、そして────。
バネの形状にも似た、薄い光の線が彼女の背中から伸び、消えては現れるを繰り返していた。




