あの祠を壊したんか!【喫茶風見鶏】
今日もジャズ喫茶『風見鶏』の静かな店内に、ふらっとひとりの客が迷い込んできた。
青年はカウンターの丸椅子に腰を下ろすと、少し声を張り上げて言った。
「マスター、この店で一番高いコーヒーを!」
白髪の混じるマスターは、穏やかに微笑みながら小さく頷き、一杯の準備に取りかかる。
淹れるまでの待ち時間、マスターとの会話を楽しみにしていた青年は、思い出したように言葉を投げかけた。
「あの祠を壊したんか!」
マスターはドリッパーに湯を注ぎながら、楽しそうに笑う。
「どうしたんですか、突然?」
「いや、そういえば一時期流行ったな、と思い出して」
マスターが少し驚いた表情を浮かべた。
「祠を壊すのが流行ったんですか?」
「いやいや! ネットのミームですよ」
青年が慌てて訂正すると、マスターはほっと胸を撫で下ろし、頷きながら言葉をつないだ。
「……そういえば、こんな話がありましてね。中国の唐代、嵩山に霊験あらたかとされる『竈の神様』を祀る祠があったんです」
青年は突然始まったマスターの語りに、静かに耳を傾ける。
「人々は病気や災いを恐れるあまり、連日のように牛や羊を屠っては、多くの生贄を捧げて熱心にその竈へ祈りを捧げていたそうです」
「竈に、ですか?」
「そうです。そこへ一人の禅僧が、修行僧たちを連れて通りかかりました。和尚は祠に入ると、崇められている竈に向かって持っていた杖(禅杖)でコンコンと三度叩き、こう言い放ちました。
『お前はただの泥と瓦が合わさってできたものではないか。聖なる霊性がどこから生じ、神気がどこにあって生贄などを要求するのか』
と。そして、さらに杖で竈を豪快に叩き壊してしまったんです」
「それこそ『あの祠を壊したんか!』じゃないですか!」
マスターはクスクスと笑いながら続きを語る。
「そうなんですよ。禅僧が竈を壊すと、音を立てて崩れ落ちた泥の中から、青い衣を着て冠をかぶった人物が現れました。その姿は和尚に向かって深々と礼をし、こう言ったそうです。
『私はこの竈の神でした。長年ここに留まり報いを受けていましたが、本日、和尚様から“無生(むしょう=あらゆる存在には固定した実体がないという真理)”の説法をいただき、この縛りから解き放たれて天上に生まれ変わることができました。厚く御礼申し上げます』
と。そう感謝を述べると、神様は空へと姿を消していった……という逸話です」
青年は少し首をひねりながら尋ねた。
「えっと……それってどういう意味なんですか?」
「竈の神様は、皆が生贄を捧げてくれるから『自分は生贄を要求できるほど凄い存在なんだ』と思い込んでいたんです。けれど禅僧に『お前はただの泥と瓦だ』と根本を教えられたことで、自分自身を縛っていた偶像(思い込み)に気づき、即座に悟りを開いて解脱した……というお話ですね」
「なるほど」と青年が頷くと、マスターは最後の仕上げのように言葉を付け足した。
「このエピソードから生まれた禅語に『破竈堕』というものがありましてね。自分を囚わせていた固定観念や価値観を打ち破り、解放されることを意味するんです」
「へぇ~、そんな言葉があるんですね」
「実はこれ、“破竈堕コーヒー”なんですよ」
タイミングを見計らったように、湯気を立てる温かなカップがカウンター越しに置かれた。青年は小首をかしげ、マスターを見つめる。
「どんな価値観を打ち破ったんですか?」
「名前は『コピ・ルアク』と言います。ジャコウネコのフンから採れる未消化のコーヒー豆を集め、綺麗に洗って焙煎したものです」
「フンですか!?」
マスターは満足げなドヤ顔で言い放つ。
「うちの店で一番高いコーヒーですよ。飲むのが嫌なら私がいただきますから、遠慮なく言ってくださいね」
「飲みます、飲みます! ……それにしても人間って、価値観を壊しまくりですね」
青年は苦笑いしながら、目の前の白磁のカップを引き寄せた。
立ち上る湯気とともに漂ってきたのは、決して嫌な匂いなどではなく、キャラメルやダークチョコレートを思わせる深く甘い芳醇な香りだった。
「最初に『動物のフンから豆を取り出して煎じて飲もう』なんて思いついた人は、まさに破竈堕の和尚ですよ。『フン=汚いもの』という固定観念をコンコンと叩き壊したわけですから」
青年が感心したように言うと、マスターは手拭巾でグラスを拭きながら目元を柔らかく和ませた。
「ええ。人間は恐れや常識という頑丈な『竈』を、知らず知らず自分の中に作りがちです。『これは価値がある』とか『これは汚くて無価値だ』とか、勝手な意味を与えては拝んだり遠ざけたりしている。ですが、その外側を覆う固定観念を一皮むいてみれば、中には思いがけない豊かな風味が眠っていることもあるのかもしれません」
「深いなぁ……。じゃあ僕も、頭の中の泥と瓦を壊すつもりでいただきます」
青年はそっとカップを傾けた。
一口含んだ瞬間、力強い香気とまろやかなコクが舌の上でほどけ、雑味を残さずにすっと消えていく。苦味は驚くほど優しく、滑らかな余韻だけが胸の奥へ広がっていった。
「……うわ、本当に美味しい。フンだったなんて微塵も感じないですね」
「ふふ、良かったです。ちなみにその豆、ジャコウネコ自身が『一番完熟した美味しいコーヒーチェリー』だけを選んで食べているんですよ。目利きに関しては、猫のほうが人間より確かなのかもしれません」
「猫にまで教えられるとは……完全に脱帽です」
青年が心地よい香りに包まれながら照れくさそうに笑うと、店内には静かに流れるジャズのピアノがふたたび優しく響き始めた。
『風見鶏』のカウンターで味わう一杯は、世間の喧騒やちっぽけな執着をそっと解きほぐしてくれる、何よりの解脱の味だった。




