何者かになりたい【喫茶風見鶏】
夕暮れ時の『風見鶏』の店内には、いつにも増してジャズの旋律が静かに落ちていた。
重い木製のドアを開けると、カランと控えめな鈴の音が響く。連日の仕事ですっかり疲れ果てていた私は、吸い寄せられるようにカウンターの端の席へと腰を下ろした。
「マスター、おすすめを」
「かしこまりました。少しお時間をいただきますね」
マスターは静かに頷き、ネルドリップの準備を始めた。研ぎ澄まされた手つきで豆を挽き、丁寧に湯を注ぎ落としていく。店内には、芳醇な深煎りの香りがゆっくりと満ちていった。
私は店内のレトロなインテリアをぼんやりと見渡していたけれど、湯気越しにマスターの背中を眺めながら、不意にぽつりと呟いていた。
「いきなりですが……マスターは何者かになりたいと思ったこと、ありませんか?」
ポタリ、ポタリと落ちるコーヒーの雫を見つめながら、マスターは穏やかな声を返す。
「そうですね。若い頃は何者かにならなければいけない、なんて思っていましたよ」
私は深く頷いた。
「やっぱり、思ったりしますよね。でも私……どうやって何者になったらいいのか、全然わからなくて」
ドリッパーから器具を外し、温めておいたカップへ手を伸ばしながら、マスターは優しく微笑んだ。
「禅語に『弄花香満衣』(はなをろうすれば かおりころもにみつ)という言葉があります。花を夢中になっていじっていたら、着ている服にまで良い香りが自然と染み込んでいた、という意味の言葉です。何かに夢中になっている間に、人はいつの間にか何者かになっているのかもしれませんね」
「そういうもの……ですか?」
「西洋的な考えだと、まず目標を立てて、そこまでの道筋を計算し、一歩一歩そこへ向かって進む……という感じかと思います。ですが禅の場合は、とにかく『只今に集中しなさい』とよく言われるのですよ」
「今、かぁ……」
私は小さく息を吐き、自分の手元を見つめた。マスターは出来上がったコーヒーをそっと私の前に置いてくれた。
「今は、何がしたい感じですか?」
「……まずはこのコーヒーを飲んで、それから何か食べに行きたいですね。あっ、ここにサイドメニューってありましたっけ?」
「一応、豆のお菓子とサンドイッチ程度でしたら出せますよ。ですが、がっつり召し上がりたいなら、二軒お隣にできたラーメン屋がおすすめです」
「あっ、来るときに見ました。何ラーメンなんですか?」
「フレンチを勉強した店長さんが、洋風のラーメンを出しているのですが、とても美味しいですよ。私も最近よく通っていましてね。……あと、店長さんが実に美人です」
私は一瞬目を丸くして、それから悪戯っぽく微笑んだ。
「あ! マスター、もしかしてその店長さんのことが好きとか?」
「ハハ、もうそんな歳ではないですよ。女性がお一人でも入りやすい素敵なお店ですので、よろしければ」
「ふふ、行ってみます」
丁寧に淹れられた深い味わいのコーヒーを飲み干すと、体の中に温かな灯がともるようだった。私は礼を言って『風見鶏』を後にし、教えられた二軒隣のお店へと向かった。
店の看板には『La Rose』と、優美な文字で刻まれている。
扉を開けると、そこはラーメン店というよりも、洗練されたフレンチレストランのようだった。落ち着いた照明と白いテーブルクロスが印象的だ。
カウンター席に座り、メニューの筆頭にあった「バラスープラーメン」を注文した。
しばらくして丼を運んできてくれたのは、長い髪を純白のコック帽の中にすっきりとまとめ、すっと通った鼻筋と、意思の強さを感じさせる美しい目元をした女性だった。
(この人が、マスターの言っていた美人店長さんだ……)
運ばれてきた一杯に、私は思わず息をのんだ。
真っ白なポタージュのようなスープの上に、色鮮やかな薔薔の花弁がふんだんに散らされている。無駄な具材はなく、どこまでもシンプルで美しい。
レンゲですくい、そっと一口口に含んだ。
「……美味しい」
ふわりと鼻に抜ける上品な薔薇の香りと、幾重にも重なった複雑で奥深い出汁の旨味。少し甘みのある滑らかな麺は、まるでスープと一体になっているかのようで、ラーメンを食べているというよりも上質なスープデセールを味わっているような錯覚に陥った。
夢中になって麺を啜り、スープを飲み干したとき、ふと卓上のメニューの隅に「本日のケーキ」の文字があることに気づいた。
「ケーキも……いっちゃう?」
自分でも驚くほどの食欲だった。気づけば追加でケーキも頼んでいた。
運ばれてきたタルトにも薔薇があしらわれており、ひとくち口に運ぶと、芳醇なブランデーの風味と薔薇の華やかな香りが口いっぱいに広がる。すっきりとした極上の甘さに、思わず「もう一個食べたい」と思ってしまうほどだった。
ふとカウンターの奥を見ると、店長さんと目が合った。彼女は優しくニコニコと私を見守ってくれていた。
「本当に美味しかったです」
会計を済ませ、心からの感謝を伝えて店を出ようとしたその時、ドアの脇に貼られた一枚の紙が目に留まった。
――従業員募集。
「あの……ここで従業員募集しているんですか?」
立ち止まって尋ねると、店長さんはぱっと表情を輝かせた。
「そうなんです! まだオープンしたばかりのお店で、全然手が足りなくて~!」
その困り顔すらどこか魅力的で、私はまるで何かに導かれるように、自然と口を開いていた。
「私、ここで働きたいです!」
「本当ですか!?」
店長さんは飛び上がらんばかりに喜び、私の手を両手でギュッと強く握りしめてくれた。その手の温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなった。
◇
あの日から、しばらくの時が流れた。
私の日常は一変した。早朝からのスープの仕込み、繊細な薔薇の下処理、絶妙な焼き加減を追求するケーキ作り――。気付けば「何者かになりたい」と悩む暇すらないほど、夢中でラーメンとケーキに向き合う日々を送っていた。
ある晴れた休日の午後、私は久しぶりに二軒隣の『風見鶏』のドアを押した。
「いらっしゃい」
変わらない穏やかな声で、マスターが出迎えてくれる。カウンターに腰を下ろすと、マスターはドリップの手をふと止め、満足そうに目を細めた。
「ふふ、いい薔薇の香りがしますね」
その言葉にハッとして、私は自分の服の袖口に鼻を近づけた。そこには確かに、毎日夢中で触れてきた薔薇とブランデーの上品で甘やかな香りが、深く深く染み込んでいた。
――『弄花香満衣』。
あの日、この場所で聞いた言葉が、静かなジャズの旋律と共に胸の中に蘇る。
何者かになろうと焦る必要なんて、最初からなかったのだ。今、目の前にある大好きなものに夢中になって生きていれば、人はいつの間にか、自分だけの素敵な香りを纏っているのだから。
「マスター、今日も美味しいコーヒーを一杯、お願いします」
私はそう言って、晴れやかな笑顔を浮かべた。




