青年が炎上事件の先に辿り着いた答えは?【喫茶風見鶏】
※今回は禅語は登場しませんm(_ _)m
夜の静寂に馴染むように、真空管アンプからかすかなサックスのノイズが流れていた。
看板に『風見鶏』とだけ彫られたそのジャズ喫茶は、路地裏の雑居ビル1階にある。店内の木製カウンターでは、白髪を綺麗にオールバックにしたマスターが、ネルドリップのネルを丁寧にお湯にくぐらせていた。
重い木製のドアが開き、カウベルが乾いた音を立てる。飛び込んできた若い男――蓮は、肩を怒らせたままカウンターの端の席に乱暴に腰掛けた。スマートフォンを木目調のテーブルに叩きつけるように置く。
「マスター、ブレンド。熱いやつで」
「はいよ」
マスターは表情ひとつ変えず、穏やかな声で応じた。蓮はスマホの画面を睨みつけ、吐き捨てるように言葉を漏らした。
「本当に腹が立つ。ネットの連中、何も分かってないんだ。今回のVtuberの炎上事件さ、中の人が顔出ししないからいけないに決まっているのに!顔を出さないなんてエンタメとして怠慢だろう? 視聴者に嘘をついてるのと一緒じゃないか。正しいか正しくないかで言ったら、絶対に『顔を出すのが正しい』に決まってるのに!」
蓮は息を荒げ、自身の正義感を証明しようと周囲に同意を求めた。
「ルールやマナーとして考えてもおかしいだろ。嘘をついて金を稼ぐのが正しいわけがない。白か黒かで言えば、完全に黒なんだよ」
マスターは深煎りの豆を挽きながら、静かに蓮の言葉を聞いていた。
その時、カウンターの反対側の端で、コーヒーを飲んでいた女性が、ふっと小さく鼻で笑った。年齢は三十代半ばほど。落ち着いたブラウスを着た彼女は、深いコーヒーの香りを身にまとい口を開いた。
「『正しい/正しくない』の尺度で語っているつもりかもしれないけれど、それ、ただの好き嫌いよ」
蓮は眉をひそめ、振り返った。
「は? なんだよ急に。俺は感情論じゃなくて、論理的な正しさの話をしてるんだ」
「いいえ」
女性はグラスを置き、静かな目で蓮を見つめた。
「人はね、まず瞬間に『嫌い』とか『不快』っていう感情を抱くの。そしてその後に、自分の不快感を正当化するために『道徳』や『社会規範』っていう都合のいい論理をあとから引っぱり出して補強しているだけ。あなたが腹を立てているのは、その配信者のやり方が『自分の好みに合わなくて不快だから』。それを『悪』と呼び換えて殴っているに過ぎないわ」
「なっ……! ふざけるな、俺は客観的な正解の話をしてるんだ! 世の中には正しいことと間違っていることの区別、白と黒があるだろうが!」
蓮の声が裏返る。自分の信じる「正義」を真っ向から否定されたような不快感が込み上げていた。
「世の中に、最初から転がっている客観的な『正解』なんてものはないわ」
女性は淡々と続けた。
「『正しさ』の根底にあるのは、いつだって誰かの主観や態度。世界にあるのは『私はこれが好き/嫌い』という感情の応答だけ。ただ、人間は社会生活を営むために『あたかも客観的な正しさがあるかのように語り合う言葉のゲーム』をプレイしているだけなのよ。それを真に受けて『絶対の正解』があると思い込むから、そうやってやけになるの」
「正解がないなんて屁理屈だ!なんだよ、そんな子供が考えたような考えは!」
興奮して立ち上がりかけた蓮の前に、コトン、と白いカップが置かれた。湯気とともに、香ばしい珈琲の香りが立ち上る。
マスターだった。
「まあまあ、お兄さん。熱いコーヒーでも飲んで落ち着きなさい」
蓮はハッと息を整える。女性は薄く笑うという。
「あら?準実在論っていうスタンスの考え方よ。認知科学や脳科学、進化心理学に裏付けされている考えだけどご存じない?」
蓮の顔は見る見る真っ赤になる。
「あら?あなたの大好きな正しい理屈なのよ?喜んだら?」
蓮が立ち上がりかけるとマスターが止める。
「美紀さんもうそこらへんで、また振られたからって若者に当たらないでください」
「うるさいわね!そうよ!また振られたわよ!男なんて屑ばっか!」
そういって突っ伏して泣き言を喚く女性を見たら青年は頭が冷めていった。
「お姉さん、準実在論ってどんな考えなの?」
美紀はだるそうにカウンターに突っ伏しながらいう。
「世の中に絶対的な正解なんてものは落ちていない。でも人間はそれがあると今まで思っていたからそれ前提で言葉とかルールとか作ってきた。だから絶対的なルールがあると思っていてもいいんじゃない?本当は皆、好き嫌いとかの感情からは自由になれないけどねって考えよ」
完全に毒気を抜かれた蓮は尋ねる。
「正解がないけど、正解を信じていてもいい?」
お姉さんはコーヒーを飲みながらいう。
「そうよ。白黒で物事を考える人にはちょっとしっくり来ない考え方なのよ。ラーメンに正解はないけど、ラーメンに正解があると真面目に議論して正解を決めても別にいいですよ。というスタンスよ。でも正解はないんだけどねって感じかしら?」
蓮は頭がこんがらがった。
「……マスターはどう思いますか? この人の言うこと、おかしくない? 正しいか正しくないかの基準もなくて、全部『好き嫌い』なら、世の中無茶苦茶になりますよね?」
マスターはネルを片付け、布巾で手を拭きながら、白い髭をたくわえた口元をゆるやかに緩めた。
「そうさねぇ……」
マスターは店の本棚に並んでいる禅を本を取り出し広げるという。
「禅の世界じゃあね、『正しい/正しくない』とか『良い/悪い』って頭で決めつけること自体を『妄想』って呼ぶんだよ。この世のあらゆるものには、最初から白や黒なんて色はついていない。ただ『そこにある』だけだ。禅でも絶対的な正解があるとはしないんだよ」
「ないの?絶対的な正解?」
「そう、ないね。人は自分の眼鏡をかけて世界を見て、『あいつは黒だ』『自分は白だ』と騒ぎ立てる。けれど、その眼鏡を一度外してみれば、ただ風が吹き、雨が降っているのと同じように、事件も人もそこにあるだけなんだよ」
マスターは温かい目を蓮に向けた。
「でもね、お兄さん。『絶対の正解なんてない』『世の中は空だ』と知ったからといって、投げやりになる必要はないんだ。正解がないからこそ、私たちは今目の前にある一杯の珈琲を丁寧に淹れ、味わうことができる。客観的な答えがない世界で、自分が何を大切にして、どう振る舞うか。その自分の『作法』を静かに磨けばいいだけの話なんだよ」
蓮は呆然とした。
「正解がない?」
マスターと美紀さんは優しく笑っているが、蓮の頭はグルグルとその言葉が回り続けた。
コーヒーを飲み終え会計を澄まし、夜の道を歩く。
白か黒か、正しいか間違っているか。二者択一の狭い世界で自分は生きていたのだろうか?
「月が綺麗だ」
正解がないからといって、世界が虚無になるわけではない。
自分の内側にある「不快」や「好み」を絶対的な正義の仮面で覆い隠し、人を叩くための刃にしていた?
「ただいま」
誰もいない部屋に帰り蓮は呟いた。
上着を脱ぎ捨ててベッドに横たわった。習慣のようにスマートフォンを取り出し、画面を立ち上げる。
画面上では、相変わらずあのVtuberの炎上事件について、無数のアカウントが「どちらが正しいか」「道徳的にどうか」と過激な言葉で殴り合っていた。
数時間前の自分なら、血相を変えてその渦中に飛び込み、タイムラインの「正義」に同調して怒りを撒き散らしていたはずだった。
しかし、今の蓮の胸には、以前のような熱量はもう湧き上がってこなかった。
(みんな、自分の『嫌い』に立派な正義の服を着せて、言葉のゲームをやっているだけなんだな……)
画面の向こうで渦巻く不毛な怒りが、どこか遠くの出来事のように思えた。白も黒もない画面をぼんやりと見つめたあと、蓮は息をひとつ吐き、静かにスマートフォンの電源ボタンを押した。
暗転した画面に、自分の顔がぼんやりと映る。
映った自分の顔は久しぶりに穏やかな顔をしているような気がした。
蓮はスマホをサイドテーブルに置くと、電気を消し、静寂の中に深く身体を沈めた。




