私は異世界転生します【喫茶風見鶏】
昭和の面影を残す琥珀色の照明と、重厚なスピーカーから流れるビル・エヴァンスの『Someday My Prince Will Come』。ネルドリップの芳しい香りが漂うジャズ喫茶「風見鶏」のドアが開き、カランと軽やかな鈴の音を響かせて一人の女性が足を踏み入れてきた。
女性はまっすぐカウンターへと向かうと、マスターへ元気に声をかけた。
「こんにちは、マスター!」
「いらっしゃい。どうぞ」
ニコニコとした笑みを絶やさないまま、彼女はいつものカウンター席へと腰を下ろす。
「いつもの、お願いします」
「はい、かしこまりました」
マスターは静かに頷き、ネルフィルターに挽きたての豆をセットし始めた。一見すると弾けるような笑顔だが、よく見ると目元にはかすかな疲労の影があり、肩の力も少し入ったままだ。連日のデスクワークや人間関係の摩擦に揉まれているのを、マスターは察していたが、あえて野暮な追及はしない。
「何か、いいことがありましたか?」
お湯を沸かしながらマスターが尋ねると、彼女は待っていましたとばかりに目を輝かせ、声を弾ませた。
「私、この度転生することになりました!」
「転生……ですか?」
マスターが手を止めずに尋ね返すと、彼女は胸を張って頷いた。
「そうです! 異世界転生ですよ!」
そこから、彼女は夢中で語り始めた。自分は選ばれた存在なのだということ。先日見たらしく不思議な夢の中でお告げがあり、この今世での命を終えた後には、自分を待っている異世界での壮大な冒険が待っているのだということ。
「魔法が存在する世界なんです。小さい頃からずっと夢見ていた、あのファンタジーの世界そのもので……!」
少女のように目をキラキラと輝かせて熱弁を振るう彼女の姿を、マスターは温かな眼差しで見つめ、やがて優しく微笑んだ。
「おめでとうございます」
その一言を聞いた瞬間、彼女はハッと我に返ったように、スンとテンションを落とした。先ほどまでの熱量が嘘のように照れくさそうな顔になり、頭をかく。
「……あ、すみません。いきなり変な夢の話なんてしちゃって。勝手に盛り上がっちゃいました」
マスターは淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、彼女の前にそっと置いた。その湯気の向こうで、穏やかな笑みを絶やすことなく語りかける。
「天国や地獄、あるいは輪廻転生という概念があるくらいです。それなら、異世界転生があったっていいんじゃないですかね?」
彼女の顔に、ぱっと花が咲くような零れるばかりの笑顔が戻った。
「ですよね! 異世界転生があったって、いいですよね!」
「ええ、異世界転生もありだと思いますよ」
「マスターなら、もし異世界に行けたらどうします?」
ふと思い立ったように彼女が尋ねると、マスターは布巾で手元を拭きながら、少し目を細めて思案した。
「そうですね……。異世界のコーヒーを楽しみたいですね」
「異世界のコーヒーかぁ~! どんな味だろ。魔力がこもってたりして」
「ふふ、楽しみですよね」
「マスターも異世界転生ですか?」
「私も、有りですね」
そう言って二人で顔を見合わせて笑い合う。けれど、その余韻が消え切らないうちに、彼女は不意に真剣な表情を浮かべ、マスターをまっすぐ見つめて問いかけた。
「……マスター。もし、異世界の青年が、この世界に転生してきて馴染めず思い悩んでいたら……どうします?」
自分がどこかこの現実世界で浮いた存在のように思えて、うまく馴染めずに立ち尽くしてしまうような焦燥感。彼女が胸の奥にずっと抱えていた問いだった。
マスターは彼女の視線を正面から受け止めると、少しだけ間を置き、静かに語りかけた。
「私には、そんな素晴らしい言葉をかけることはできません。ですので……もしその青年が、この新しい世界でどう生きるべきか悩んでいるようでしたら、禅語をひとつお贈りしたいと思いますね」
「禅語、ですか?」
「はい。『随処作主』——どこへ行こうと、どんな境遇に身を置こうと、自らが自分の人生の主人公であれ、という言葉です。たとえ馴染めない世界であっても、自分自身であり続けることができれば、何も問題はないでしょう」
彼女は息を呑み、その言葉を慈しむように噛み締めた。
自分が聞きたかった台詞は、これだったのだ。自分が今いるこの現実世界でも、周りに流されず、自分自身が主人公として生きていけばいい。マスターの温かな声が、凝り固まっていた胸の奥を静かに解きほぐしていく。
そっとカップを持ち上げ、最後の一口を口に含む。先ほどまでより、ずっと深く香ばしい。今日本当に欲しかったものが体に染み渡り、最後の一口が、今日一番美味しかった。
「随処作主……覚えておきます。私も無事に異世界転生を果たした暁には、どこへ行っても自分であり続けます!」
マスターは目を細め、心地よい笑顔を向けた。
「ええ。冒険を楽しんでくださいね」
「ふふ、でも……まずは今世の現代を楽しまないとですね!」
彼女がいたずらっぽく笑うので、マスターもつられて楽しそうに笑った。
やがて「ごちそうさまでした」とお会計を済ませると、彼女は軽やかな足取りで店を出て行った。
カランとドアベルが鳴り、外の光の中へ出ていく背中をマスターは見送る。
店の前の道路を、ゴロゴロと重い音を立てて一台の大型トラックが走り抜けていく。彼女はそのトラックの迫力ある走り去る姿を目で追い、ふっと満足そうに笑った。
「フフ……楽しみは、とっておこう」
そう呟いた瞬間、ポケットの中のスマートフォンがブブッと震えた。画面には「職場・チーム連絡」の通知。
彼女は深呼吸をひとつすると、「よしっ、まずは今日のイベントを攻略しますか!」と小さく呟き、晴れやかな笑顔で街の雑踏の中へ踏み出していった。




