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禅語何それ美味しいの?  作者: 夕暮れの家


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この世は地獄?【喫茶風見鶏】

 ジャズ喫茶「風見鶏」に今日も私は来た。夜勤明け、朝日が昇った世界は眩しいが私の心は沈んでいる。すぐに家に帰ってベッドで寝たいような気がするが、どうしてもマスターに会いたくなった。


 店内に入るとジャズのメロディが心地よく、コーヒーの香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。ここだけは別世界のような気がする。


 朝早いこの時間は店内には誰もいない。カウンターに座る。


「マスター、いつものください」


 そう言ってお気に入りのブレンドを頼む。そして、マスターが淹れてくれている間、目を瞑る。そうするといつもマスターが聞いてくれるのだ。


「お疲れですか?」


 私は溜まったうっぷんを晴らすように言う。


「本当に世の中は地獄じゃないですか? 現世の人間界って実は地獄だったりしません?」


 マスターは柔らかく笑う。


「案外そうなのかもしれませんね」


「ですよね」と言いながら心の泥を吐き出す。


「皆、自分のことばかり。他人に優しくなんてしたら損と言わんばかり。嫌になります。平穏な時間は驚くほど短いし、世の中トラブル起きすぎです」


 マスターは深く頷くと、静かに語りかけてくれた。


「ショーペンハウアーは世の中は苦痛と退屈の振り子だと言いました。仏教では一切皆苦なんて言ったりします。世の中、苦が多いですよね」


 私の気持ちを分かってくれたようでうれしくなる。


「そうです! 世の中苦だらけなんです! 現世は地獄なんですよ!」


 マスターは優しく微笑みながら言ってくれる。


「喜びは驚くほどにすぐに慣れてしまう。でも苦しみはいつまでも鮮明に心をえぐってくる。疲れてしまいますよね」


 思わず下を向いてしまう。本当に嫌になる。そうすると私の前に小さな器に入ったコーヒーが置かれる。


「地獄のコーヒーです。どうぞ」


 そう言われ、苦笑いをして一口飲んでみる。苦みが心地よく、体の内側から力が抜ける感じがした。


「地獄の味がしましたか?」


 私は微笑みながら言った。


「……美味しいです」


 マスターは言った。


「少しお節介ですが、禅語にはこんな言葉があります。『心外無別法(しんげむべっぽう)』、自分の心が世界を映し出すという意味です。心が疲れているときは世界は地獄に見えるものです。美味しいものを食べてよく眠ってください」


 マスターの優しさだけが、今の私にとっての蜘蛛の糸だった。


 今日も私はマスターのコーヒーで息を吹き返す。明日だってまた辛い目にあう。でも、またここに来れば大丈夫。


 私には世界が天国には見えないけれど、この時間だけは地獄ではない。

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